第2話:赤字の辺境へようこそ
王都を出て、馬車に揺られること八日。
景色は、北へ進むほどに痩せていった。豊かな麦畑は、いつしか雑草の生い茂る荒れ地に変わる。村を通り過ぎるたびに、空き家が増えていった。窓の割れた家。崩れかけた納屋。畑には、誰かが種を蒔いた跡さえ、もう残っていない。
(逃散ね)
重い税に耐えかねた領民が、土地を捨てて逃げ出した跡だ。一軒、二軒ではない。村ごと、まるごと人が消えている。
(捨てられたのは、わたしだけじゃ、なかったみたい)
ふいに、おかしくなった。華のない娘が邪魔だと、父はわたしを北へ捨てた。けれどその捨て先では、領地そのものが、住む人に捨てられている。――ずいぶんと、お似合いの嫁ぎ先を選んでくれたものだ。
遠くに、灰色の山並みが見えた。あれが「灰の境」――魔物が棲むという、王国北端の境界。グラウフェルト辺境伯領は、その魔物境を一身に背負う、王国の盾だ。
そして、王国一の赤字領地。
辺境伯の館は、思っていたよりも質素だった。石造りの、古いけれど頑丈そうな建物。けれど、手入れする金もないのだろう。壁のあちこちに、ひびが走っていた。
「あんたが、新しい徴税官かい」
出迎えたのは、白髪の老人だった。鋭い目で、わたしを上から下まで眺める。
「副官のギードだ。……女の、それも令嬢様が徴税官とはな。中央もずいぶんと、辺境を舐めてくれる」
刺のある声だった。歓迎されていないことは、馬車を降りる前から、わかっていた。
「エルナ・フォン・ライゼンタールと申します。お役に立てるよう、努めます」
「お手並み拝見、といくか」
ギードに案内されて館に入ると、奥から大柄な男が現れた。
背は頭一つ分高く、肩幅は広い。古びた外套の下に、使い込まれた剣。なにより、その手が目を引いた。荒れて、傷だらけで――剣を握り続けた手だ。帳面を繰る手では、ない。
「グラウフェルト辺境伯、ヴォルフ・フォン・グラウフェルトだ」
低い声。無愛想な、けれど嘘のなさそうな顔。彼はわたしを見て、なぜか少し気まずそうに、視線をそらした。
「……すまんが、もてなしらしいもてなしはできん。見ての通り、この領は貧しい。あんたが来ても、できることは何もないかもしれん」
諦めたような言い方だった。けれど、その奥に、領民を案じる響きがある。「自分は何もしてやれなかった」という、後ろめたさのような。
(妙な人)
捨てられた令嬢が一人来たところで、痩せた辺境が潤うはずもない。普通の領主なら、厄介者が一人増えた、と舌打ちする場面だ。なのにこの人は、よりにもよってわたしに、申し訳なさそうにしている。
「お気遣いなく。わたしは、もてなしより、帳簿を拝見しに参りましたので」
ヴォルフ様が、わずかに眉を上げた。
「帳簿、か。……ギード、案内してやってくれ。俺は、帳面は逆さに持っても同じに見える質でな」
冗談なのか本気なのか、わからない顔で彼は言った。
歩きかけたわたしの背中に、もう一度、低い声がかかる。
「ギード。北向きの客間は、夜が冷える。火の近い部屋を、回してやれ」
ぶっきらぼうな、けれど、たしかな気遣いだった。わたしが礼を言うより早く、彼はもう大きな背を向けている。優しさを見られるのが、決まりが悪いとでもいうように。
(……強面のわりに、不器用な人)
通された一室を見て、わたしは思わず、足を止めた。
帳簿の、山。
棚という棚に、埃をかぶった台帳が、無造作に積み上げられている。床にまで、紐でくくった束が崩れ落ちていた。何年分――いいえ、何代分あるのか。とじ紐の切れたもの。ねずみにかじられたもの。雨漏りで滲んで、頁が波打ったもの。黴と古い紙の匂いが、むっと鼻をついた。
整理という言葉を、この部屋は知らないらしい。
「先代の頃から、こうでな」とギードが渋い顔で言う。「徴税は、代官のバルトロト殿に任せきりだ。わしらは、帳面の見方もわからん」
代官のバルトロト。――その名前を、わたしは頭の隅に書きとめた。
一冊、手に取ってみる。今期の徴税台帳らしい。ぱらぱらとめくって、わたしは眉をひそめた。
(……これは、ひどい)
徴収額。支出。上納額。数字は、並んでいる。けれど、並んでいるだけだ。何が資産で、何が負債なのか。どこから入って、どこへ消えたのか。まるで、見えてこない。
そして――見えてこないように、してある。そんな気がした。
「どうだ、令嬢様」ギードが試すように言う。「読めるかね、それが」
「読めます」
わたしは答えた。
「ただ、一晩いただけますか。この帳簿、ひと晩で――全部、読み解いてみせます」
ギードが、ふん、と鼻を鳴らした。けれど、その目の奥には、かすかな興味の色があった。
その夜。
わたしは灯りを引き寄せ、母の形見のそろばんを、傍らに置いた。玉に触れると、不思議と、気持ちが静まる。冷えた指先に、すり減った木の玉だけが、あたたかい。
(さあ、母さん。両建ての帳を、始めましょう)
運ばれてきた夕食は、硬いパンと、薄い豆のスープだった。それでも、領民の口に入る分を削って出してくれたのだと、ひと目でわかる。この館の誰も、贅沢などしていない。痩せているのは、土地のほうだ。
わたしは、ペンを取った。
王都の連中は、この領を「不毛」と切り捨てた。父は「誰も帰ってこない貧乏領地」と笑った。――けれど、本当にそうかしら。
埃をかぶった数字の山に、わたしは指を沈めていった。
灯りの芯が、ぱちりと音を立てる。長い夜になりそうだった。
赤字の辺境、グラウフェルトに到着です。無骨で不器用な辺境伯ヴォルフ、辛口の老副官ギード、そして謎の代官バルトロト――。そして何より、埃まみれの帳簿の山! 次回はいよいよ、エルナが一晩で帳簿を読み解きます。「王国一の貧乏領地」の、本当の正体とは……?
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