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第18話:剣と算盤

最初の交易隊が、旧街道を発った。


荷馬車が三台。羊毛と、わずかな干し肉。護衛は、ヴォルフ様と、領兵が四人。そして――帳面とそろばんを抱えた、わたし。


「お前まで来ることはない」と、出立の朝、ヴォルフ様は渋い顔をした。「灰の境の脇だぞ」


「荷の検分は、財務官の仕事です。どの品が、いくらで、どれだけ売れたか。この目で確かめなければ、次の帳面が組めません。――それに」


わたしは、淡々と付け加えた。


「初めての交易です。何が起きるか、わたしも見ておきたいんです」


ギードが、出発の費えを書き出した紙を見て、渋面をつくった。護衛の兵に払う手当、馬の飼葉、道中の食料。締めて、十二グルデン。


「黒字を出すために出かけて、先に金が出ていく。皮肉なもんだ」


「いいえ、ギード。これは損ではありません」


わたしは、紙の余白に、もう一行書き足した。


「もしこの荷が魔物に襲われて、全部失われたら――百グルデン近い損です。荷も、馬も、人も。守りにかける十二グルデンは、その百グルデンを失わないための、元手なんです。安いものですよ」


ギードは、しばらく紙を眺めて、ふん、と鼻を鳴らした。


「……理屈で、人の命まで安く言うな」


「ええ。だから、いちばん高い護衛をお願いしているんです」


馬上のヴォルフ様を、わたしは見上げた。彼は、何も言わなかった。けれど、ほんの少しだけ、背筋を伸ばした気がした。



道中は、静かだった。


枯れ草の原を、荷馬車がゆっくりと進む。右手にはずっと、灰色の山並み。風が、硫黄のにおいを運んでくる。兵たちの表情は固く、誰も口をきかない。


灰の境が、いちばん近づいたあたりだった。


先頭の馬が、ふいに、いなないた。


「止まれ」


ヴォルフ様の声が、低く飛んだ。剣が、鞘から滑り出る。


枯れ草の向こうから、それは現れた。痩せた、灰色の獣――灰狼、と兵が呼ぶ、灰の境の魔物だ。四つ。いや、五つ。低く身を伏せ、荷馬車の馬を、ねらっている。


心臓が、ひとつ、大きく鳴った。


(落ち着きなさい、エルナ。あなたの仕事は、戦うことじゃない)


わたしは荷馬車を降りて、御者と一緒に、馬たちの手綱を握った。怯えて暴れれば、荷ごと谷へ落ちる。荷を、馬を、守ること。それが、戦えないわたしにできる、ただ一つのことだ。


ヴォルフ様が、前に出た。


剣がうなる音を、わたしは初めて聞いた。一頭目が飛びかかった刹那、彼の刃が一閃して、それを薙ぎ払う。二頭目が横から来る。彼は身をひねり、最小の動きで、それを断つ。


派手さは、なかった。叫びも、咆哮もない。ただ、必要なだけの動きで、必要なだけ、危険が取り除かれていく。


帳面を組むときの、わたしと同じだ。無駄な一筆を、書かない。


(……ああ。この人は、剣でも、合っているのね。一の位まで)


最後の一頭が、低く唸って、灰の境のほうへ退いていった。


静寂が、戻ってくる。荷馬車は、一台も欠けていない。馬も、人も、無事だった。十二グルデンの元手は、百グルデンの荷を、まるごと守りきった。


ヴォルフ様が、剣をおさめ、こちらを振り返る。


「……怪我は」


「ありません。あなたこそ」


「慣れている」


短く言って、彼は手の甲で、頬の血を拭った。それが自分の血でないことを、わたしは祈った。



その夜、野営の焚き火のそばで、ヴォルフ様は、めずらしく口を開いた。


「父も、この道を守ろうとして、兵を出した」


火の粉が、ぱちりと爆ぜる。


「だが、中央は『辺境ごときに兵を割く金はない』と、賦課ばかり重くして、守りの費えは認めなかった。父は、自前の財で兵を雇おうとして……金が、続かなかった。道は閉じ、人は逃げ、領は痩せた。父は、それを自分の無力だと思い込んで、抗うこともできずに、逝った」


彼の横顔を、火が照らしている。長く沈めてきた、何かが、そこにあった。


「俺は、ずっと思っていた。数字なんてものは、俺たちを縛る鎖だと。中央の連中が、それで辺境を絞め殺すための」


「……」


「だが、お前の数字は、違った。お前は、守りにかける金を『損ではない、元手だ』と言った。父が、誰にも認めてもらえなかったその一行を、お前は、当たり前のように帳面に書いた」


わたしは、母のそろばんを、そっと膝の上で握った。


「辺境伯。お父上は、無力だったわけではありません」


「……」


「ただ、味方に、帳面を読める者がいなかった。それだけです。お父上が守ろうとしたものは、間違っていなかった。――今日、それが、証明されました。この道は、ちゃんと、黒字になる道です」


ヴォルフ様は、長いあいだ、火を見つめていた。


やがて、ぽつりと言った。


「お前が来てくれて、よかった」


たったそれだけの言葉が、なぜだろう、これまで聞いたどんな称賛よりも、深いところに届いた。


(……困ったわ。わたし、この人の役に立ちたいと、思い始めている)


それは、帳面のどこにも記せない、けれど確かに胸に積み上がっていく、新しい勘定だった。



交易は、成功した。


ヴェントで羊毛は売れ、塩と鉄を積んで、交易隊は帰ってきた。歩合の取り分、売り上げ、差し引きの費え――すべてを両建ての帳に書き込んで、わたしは最後の一行を、ペンで囲んだ。


差引、黒字。


過剰徴税を止めて以来、初めて。領庫に、わずかな、けれど確かな余剰が生まれた。


ギードが、その一行を、何度も読み返していた。


「……黒い字だ。久しぶりに見る、黒い字だ」


老副官の声が、少しだけ、湿っていた。


剣と算盤の回でした。今回の見せ場は、エルナの「見守る側」の視点から描くヴォルフの戦い。派手なバトルではなく、彼の剣もまた「無駄な一筆を書かない」――エルナの帳面と同じものとして描いてみました。


そして、ヴォルフの父が背負った無念。「守りにかける金は損ではない、元手だ」というエルナの一行が、二十年越しに、亡き先代を肯定します。領庫には、ついに初めての黒字(余剰)が。二人の距離も、もう一歩。


次回「余ったお金の、正しい使い道」。初めての余りを、どう使うか。エルナの財政哲学が、領に根を張ります。ブックマーク・★評価で応援いただけると、とても嬉しいです!


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