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第17話:眠っていた街道

灰の境にいちばん近い場所に、忘れられた道が一本ある。


地図の上では、ただの掠れた線。けれど両建ての帳の上では、それは立派な「資産」だった。


旧街道――かつてグラウフェルトと、東の隣領ヴェントを結んでいた交易路だ。先代の頃、魔物の出没を恐れて閉ざされ、以来、誰も通らないまま、雑草に埋もれていた。


(死蔵された権利。……いちばん惜しいかたちの、貧しさだわ)


中央財務伯ローデリヒを監査で退けて、ひと月。過剰徴税をやめ、休耕地に種を蒔き直したグラウフェルトの帳面には、ようやく小さな黒字の芽が見え始めていた。けれど、芽は芽でしかない。次の一手が要る。


その一手が、この街道だった。


わたしは、ヴォルフ様と二人で、その道に立ってみた。


ひび割れた敷石の上に、膝丈の枯れ草が揺れている。遠くには灰色の山並み――灰の境。風が、かすかに硫黄のにおいを運んでくる。けれど道そのものは、思ったよりずっと、しっかりしていた。


「先代が閉じてから、二十年だ」とヴォルフ様がつぶやく。「俺が子どもの頃は、ここを荷馬車が行き来していた。塩も、鉄も、向こうから来た」


「立派な道ですね。先人が、お金をかけて造った。それを、二十年も眠らせていた」


わたしは、敷石を一つ、靴の先で撫でた。


「この道を開き直せば、ヴェントの塩や鉄が、半分の日数でうちに届きます。逆に、うちの羊毛も向こうへ出せる。通る荷から、わずかな通行料をいただく。――眠っていた道が、毎年お金を生む畑に変わるんです」


ヴォルフ様は、灰の境のほうへ目をやった。


「だが、魔物が出る。だから、閉じたんだ」


「ええ。ですから、そこは辺境伯のご領分かと」


彼が、わずかに口の端を上げた。剣の話になると、この人の背筋は伸びる。



数日後、ヴェントの商人がやってきた。


コンラート、と名乗った恰幅のいい男だ。にこやかで、目だけが笑っていない。商人の目だ。


「いやはや、旧街道を再開とは、辺境伯領も思い切られた。――では、こうしましょう。あの道の通行権、まとめて我が商会が買い取りましょう。五百グルデン、いかがです? 今この場で、金貨でお支払いする」


ギードが、ごくりと喉を鳴らした。五百グルデンは、今のグラウフェルトには目のくらむ大金だ。一度に入れば、館の修繕も、来季の種籾も、一息に賄える。


ヴォルフ様が、ちらりとわたしを見た。判断を、預けてくれている。


(――コンラート殿。あなた、いい商人ね。だからこそ、その値段を出すのよ)


わたしは、淑女の声で微笑んだ。


「ありがたいお話です。けれど、お断りいたします」


「ほう?」


「権利を売れば、入るのは一度きり。五百グルデンで、それきりです。――けれど貸せば、道が使われるたびに、毎年お金が入る。あなたが五百グルデンを出すということは、あなたはこの道に、それ以上の値打ちがあると見込んでいるということ。違いますか?」


コンラートの笑みが、ほんの少しこわばった。


「……これは、手厳しい」


「そこで、ご提案です。通行料は一律ではなく、運ぶ荷の高に応じた歩合に。商いが小さいうちは、あなたの負担も軽い。商いが膨らめば、その分だけ、うちにも入る。――あなたが儲かるほど、わたしたちも黒字になる。互いに、損をしない取り決めです」


しばらく、沈黙があった。


やがてコンラートは、腹の底から笑い出した。


「参った。辺境に、こんな帳面番がいるとは聞いていなかった。――いいでしょう、その歩合、乗りましょう」


握手が交わされる。わたしは胸の中で、そっと逆算した。


(初年は、ざっと年に八十グルデン。商いが軌道に乗れば、いずれ二百は固い。……死蔵していた一本の道が、これだけ実る)



その晩、村ではちょっとした騒ぎになった。街道が開き、ヴェントの品が入る――そう聞きつけて、ニコが目を輝かせて駆けてくる。


「お姉ちゃん! 東の道、ほんとに通るの? 玉っころ(そろばん)で、おいらたちのぶんも数えてくれる?」


「数えるわよ。だから、あなたも早く玉っころを覚えなさい」


笑いながら、わたしは母のそろばんに手を置いた。


ただ、気がかりが一つ、残っていた。灰の境。あの道の値打ちは、魔物という危険と、つねに背中合わせだ。交易隊が一度でも襲われれば、商人は二度と来ない。せっかくの黒字が、一夜で赤字に転げ落ちる。


その懸念を口にしたとき、ヴォルフ様は、静かに言った。


「最初の交易隊。――俺が、護衛につく」


わたしは、思わず顔を上げた。


「辺境伯、自らが? 危険です。あなたに何かあれば、この領は」


「お前の組んだ帳面を、魔物ごときに破らせはしない」


ぶっきらぼうに、けれど、まっすぐに、彼はそう言った。荒れた手が、剣の柄に触れる。


「お前は、数字で領を守るんだろう。なら俺は、剣でお前の数字を守る。――それだけだ」


不意に、胸の奥が、妙に騒いだ。


(……ずるい人。そういうことを、平気な顔で言う)


わたしは慌てて帳面に目を落とした。頬が、少し熱い。数字を読むときには、決して上がらないはずの体温が。


母のそろばんの玉を、意味もなく一つ、弾いた。けれどその答えだけは、わたしの帳面にも、うまく書き込めなかった。


二十年眠っていた街道が、ようやく目を覚まします。エルナの武器は、相変わらず帳簿と逆算――今回は「権利は、売れば一度きり。貸せば毎年実る」というお話でした。そして、灰の境の魔物に備えて、ついにヴォルフが自ら護衛を買って出ます。剣で、彼女の数字を守るために。


次回はいよいよ、初めての交易隊。エルナは「見守る側」で、ヴォルフの戦いを見つめます。そして、彼の背負ってきた過去にも、もう一歩――。


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