第16話:黒字の芽
監査が終わって、半月が過ぎた。
辺境の暮らしは、目に見えて変わったわけではない。相変わらず空は広く、風は冷たく、灰の境の山並みは、北の果てに黒く沈んでいる。
けれど、帳面の上では、確かに、何かが動き始めていた。
その朝、わたしは月ごとの収支を、両建ての帳でまとめていた。
過剰徴税を止めた。賦課が半分に正された。逃げかけていた領民が、畑に留まった。休耕地には、春先に蒔いた種が、芽を出している。
入ってくるものと、出ていくもの。その両面を、同じ重さで並べる。
そして――。
(……入ってくる分が、出ていく分を、上回っている)
わずか、十二グルデン。
数十グルデンが庶民一人の年収というこの世界で、領全体の収支が、たった十二グルデンの黒。胸を張れる額では、まるでない。
けれど。
この領が、何年ぶりかに、月の勘定で「黒」を出したのだ。
「ギード」わたしは、老副官を呼んだ。「見てください。今月の収支です」
ギードは、帳面を覗き込んだ。逆さに持つヴォルフ様と違って、彼は数字の並びくらいは読める。しばらく見つめて、それから、ぐっと眉根を寄せた。
「……黒、か」
「ええ。たった十二グルデンですけど」
「たった、じゃない」
老副官の声が、わずかに掠れた。
「わしは、この領で四十年、帳面を見てきた。赤い数字しか、見たことがなかった。先代の頃も、その前も。――黒い数字を見るのは、生まれて初めてだ」
ぶっきらぼうな横顔が、少しだけ、くしゃりとなった。彼は、ごまかすように鼻を鳴らして、窓の外へ目をやった。
休耕地だった畑に、薄い緑が広がっている。
死蔵されていた土地。誰も使わず、眠っていた資産。そこに、わずかな元手で種を入れた。今、その元手が、芽になって返ってきている。
(投資回収。――今お金を使えば、来年もっと返ってくる。あの荒れ地が、それを、ちゃんと証明してくれた)
その晩の食卓を、わたしは忘れないだろう。
硬いパンと、薄い豆のスープ。最初にこの館で出されたのと、同じ献立――のはずだった。けれど、スープには、豆が、いつもの倍は入っていた。そして、小皿に、塩漬けの肉が一切れずつ。
「収穫の見込みが立ったんでね」マルタが、得意げに言った。「村のみんなで、少しだけ奮発したのさ。財務官様の、お祝いだよ」
ニコが、肉を頬張りながら、にこにこと笑っている。
「お姉ちゃん! おいら、今日、玉っころで百まで足せたんだ! かあちゃんが、すごいすごいって!」
「すごいわ、ニコ。その調子なら、来年には領の帳簿を任せられるわね」
「ほんと!? おいら、財務官になる!」
食卓が、笑い声であたたかい。
最初にこの領へ来た夜、領民の分を削って出されたパンとスープを、わたしは思い出していた。あのときの食卓と、同じものを食べているのに――まるで、味が違う。
豆ひとつかみ。肉ひと切れ。数字にすれば、ささやかなものだ。
けれど、これが「黒字」の、本当の意味なのだと思う。帳面の上の十二グルデンが、こうして、誰かの食卓を、ほんの少しだけ温かくする。
(悪くないわ。ええ、ぜんぜん、悪くない)
ヴォルフ様が、肉を一切れ、そっとニコの皿に移してやっていた。無骨な手つきで、不器用に。視線が合うと、彼は気まずそうに、目をそらした。
「……食わんのか」彼が、ぼそりと言った。「お前は、いつも領のことばかり勘定して、自分の腹は後回しだ。今日くらい、ちゃんと食え」
そう言って、彼は自分の肉まで、わたしの皿に移そうとした。
「いただきます。でも、辺境伯の分まではいりません」わたしは、その手をやんわり止めた。「領主が痩せては、領が痩せて見えます。――これも、立派な財政の話ですよ」
ギードが、ぷっと吹き出した。ヴォルフ様は、ばつが悪そうに、硬いパンをかじっている。
(……ほんとうに、ずるい人)
平穏は、けれど、長くは続かなかった。
数日後、旧街道を通ってきた行商人が、館に物を売りに立ち寄った。北の辺境にまで足を延ばす、めずらしい客だ。わたしは、世間話のついでに、王都の景気を尋ねた。
行商人は、声を潜めた。
「いや、それがね、財務官様。王都じゃ、妙な噂が流れてまさあ。アーレンス侯爵家――ほら、あの羽振りのよかった名家が、どうも内証が苦しいらしいって」
わたしの指が、ほんの一瞬、止まった。
アーレンス侯爵家。レオンハルト様の、家。わたしを「華がない、数字をこねる女」と切り捨てて、放り出した家。
「商人仲間じゃ、もっぱらの噂でしてね。なんでも、去年あたりから支払いの遅れが目立つって。聖女様だかへの貢ぎ物は派手に続けてるってのに、職人への払いは滞る。――まあ、長くは保たねえだろうって」
(……半年で潰れますよ、と申し上げたはずなのに)
婚約破棄のあの夜、わたしが告げた言葉。来期の作付けは三割減、交際費は二割増、借り換えた負債の利は倍。あのまま放っておけば、この家の財布は半年で底が抜ける。
わたしの言った通りに、数字は動いていた。嘘を、つかないから。
(けれど、まだ早い。半年で底が抜けるはずが、まだ保っている。誰かが、必死で穴を塞いでいるのね。――そう長くは、もたないでしょうけれど)
わたしは、私怨で笑ったりはしない。ただ、遠い帳面が、見える通りに傾いていく。それを、静かに見届けるだけだ。
「ご親切に、ありがとう」わたしは行商人に微笑んだ。「ところで、あなた。旧街道を通ってこられたのよね。あの道、今は、どんな様子?」
「ああ、ひどいもんで。灰の境のすぐ脇でしょう。魔物が出るってんで、近頃は誰も通りたがらねえ。けど、本当は近道なんでさあ。この道が安全に通れりゃ、東の隣領との行き来が、ぐっと楽になる」
旧街道。――忘れられた、交易の道。
死蔵されているのは、休耕地だけじゃない。この領には、もう一つ、眠った資産がある。灰の境のそばを通る、古い街道の、通行の権利。
行商人が帰ったあと、わたしは古い記録を引っぱり出した。グラウフェルト辺境伯領は、かつてこの旧街道の交易権を持っていた。魔物の脅威で道が廃れ、誰も使わなくなって、権利ごと、眠ったままになっている。
そこへ、知らせが届いた。ギードが、一通の書状を手にやってきた。
「財務官殿。東の隣領――ヴェント領の商人から、面会の申し入れだ。なんでも、旧街道の通行権について、辺境伯と話がしたいとさ」
(……ずいぶん、間がいいこと)
わたしは書状を受け取った。隣領の商人が、わざわざ辺境まで足を運んで、眠った街道の権利に話をつけに来る。向こうにも、欲しい理由があるということだ。
ということは――こちらにも、売り方がある。
「ギード。お会いします、と返してください」わたしは、母のそろばんに手をのせた。「ただし、こちらの足元を見られないように。眠っている権利の、本当の値打ちを、きちんと弾いてからね」
ぱちん、と、玉を一つ弾く。
黒字の芽は、まだ、十二グルデン。けれど、芽は育てるものだ。
(さあ。次は、眠った街道を、起こしましょうか)
第16話、お読みいただきありがとうございます! ついに、ささやかな「黒字の芽」が芽吹きました。たった十二グルデン。でも、四十年赤字を見続けたギードには、生まれて初めての黒い数字。そして、豆ひとつかみ、肉ひと切れ分だけ温かくなった食卓。再建は、こういう小さなところから始まります。
一方で、遠い王都からは、アーレンス侯爵家の不穏な噂が。「半年で潰れますよ」と告げたエルナの言葉通り、数字は静かに動いているようです。
次回からは、新章。眠った旧街道の交易権をめぐって、隣領ヴェントの商人との交渉が始まります。エルナの「値踏み」、どうぞお楽しみに!
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