第13話:監査官が来る
三日後の昼、その馬車は、辺境にはあまりにも不似合いだった。
黒く磨かれた車体に、金の縁取り。四頭立ての、艶やかな馬。痩せた畑と空き家ばかりのこの土地に、王都の絢爛が、そのまま転がり込んできたようだった。
馬車から降りたのは、五十がらみの、痩せた男だった。
仕立ての良い、けれど地味な色の上着。きれいに撫でつけた白髪まじりの髪。顔には、穏やかな微笑み。一見すると、どこにでもいる、品のいい役人に見えた。
けれど、その目だけが、笑っていなかった。
「これはこれは。わざわざのお出迎え、痛み入ります」
男は、慇懃に頭を下げた。
「中央財務府、財務伯ローデリヒ・フォン・ファルケと申します。此度の監査を、務めさせていただきます。――グラウフェルト辺境伯、ヴォルフ殿。それに」
彼の視線が、すっと、わたしに向いた。
「ライゼンタール伯爵家の、エルナ嬢。こんな辺境で、またお目にかかるとは。奇遇ですなあ」
奇遇。
(よく言うわ。わたしをここへ放り込む書類に、判を押したのは、あなたでしょうに)
わたしは、淑女の礼をした。声は、なめらかに出た。
「ファルケ財務伯。遠路、お疲れさまでございます。辺境の埃っぽい道を、その立派なお召し物で。――さぞ、汚れたことでしょう」
ローデリヒの微笑みが、ほんのわずか、固くなった。それから、また穏やかに戻った。
「いやいや。仕事ですからな。中央の財務を預かる者として、辺境の乱れを、放ってはおけません」
「乱れ、とおっしゃいますと」
「代官が、罷免されたそうではありませんか」
彼は、両手を背に組んで、ゆっくりと歩き出した。館の壁のひびを、わざとらしく眺めながら。
「永らくこの領を支えてきた、忠実な代官バルトロト殿。それを、来たばかりの娘御が、独断で追い落とした。――領民は、さぞ混乱しておりましょう。徴税の秩序が、根こそぎ乱されたのですから」
(忠実な代官、ね。中抜きした金の、いちばん太い流れの先が、あなただったのに)
わたしは、心の中で、その帳尻を思い出していた。バルトロトの裏帳簿。中抜きされた銀貨が、上納の名目で、最後にどこへ流れていたか。証拠の一部は、もう、わたしの手の中にある。
けれど、ローデリヒは、それを知らない――いや。
(……知っている。だから、来たのね)
わたしは、彼の言葉の裏を、逆から読んだ。
監査とは、他人の帳簿が正しいかを、検めること。けれど、この男がわざわざ自ら辺境くんだりまで足を運んだのは、辺境の帳簿を検めるためではない。
逆だ。
検められると、困るのだ。バルトロトを失った今、中抜きの構造が、いつ暴かれるかわからない。その前に――その帳簿を読み解いた、わたしという女を、「不正な徴税官」に仕立て上げて、追い落とす。
そうすれば、検める者がいなくなる。
(監査する者の帳簿は、誰が検めるの。……自分で自分を検める者は、いくらでも、白く塗れる)
「ファルケ財務伯」
わたしは、口を開いた。
「具体的に、何を監査なさるのでしょう。代官の罷免は、二重帳簿と過剰徴税の、確かな証拠に基づくものです。記録は、すべて残しております」
「ああ、それですよ」
ローデリヒは、にこやかに振り返った。
「その『証拠』とやらが、本物かどうか。――娘御一人が、たった一晩で作り上げた帳簿。都合よく、忠実な代官を陥れる数字。それが、捏造ではないと、誰が言えます?」
胸の奥が、ひやりとした。
そう来たか。彼は、わたしの武器を、そのままこちらに向け直した。「不正を暴いた帳簿」を、「不正のために捏造された帳簿」だと言い張る。証拠を、証拠で塗り替える。
「あなたこそ、不正会計の疑いがある。――私はそう申し上げているのですよ、エルナ嬢」
慇懃な声が、刃のように、すっと喉元に当てられた。
そのときだった。
「待て」
低い声が、割って入った。
ヴォルフ様だった。彼は、一歩前に出て、わたしとローデリヒの間に立った。大きな背中が、わたしの視界を、ふさいだ。
「ファルケ殿。その娘の帳簿が捏造だと言うなら、証拠を出せ。出せないなら、それはあんたの、ただの言いがかりだ」
「辺境伯。お言葉ですが、これは中央の――」
「この領の財務官は、俺が任じた」
ヴォルフ様は、ローデリヒの言葉を、断ち切った。
「俺の名と、俺の印で、任じた。彼女を疑うということは、俺を疑うということだ。辺境伯であるこの俺を、な。――それでも、続けるか」
無骨な、言葉足らずな男だった。世辞ひとつ言えない。けれど、その背中は、岩のように動かなかった。誰かが、わたしの前に立って、盾になってくれたことなど――いつ以来だろう。
(……辺境伯)
胸の奥で、ずっと凍っていた何かが、その背中の温度に、少しだけ溶けた。
ローデリヒは、しばらく、ヴォルフ様を見上げていた。それから、ふっと、笑った。
「結構。よろしいでしょう」
彼は、両手を広げた。
「ならば、公平にまいりましょう。――公開の場で、監査をいたします。領民を集め、双方の帳簿を、衆目の前に並べる。どちらの数字が正しいか、白日のもとに、はっきりさせようではありませんか」
公開監査。
彼は、自信に満ちていた。中央の権威、五十年の役人歴、そして――握りつぶせるだけの、後ろ盾。痩せた辺境の娘一人など、衆目の前で、丁寧に、にこやかに、潰せると思っている。
「三日後。領の広場で。――よろしいですな?」
ヴォルフ様の背中越しに、わたしは一歩、前へ出た。
「ええ。望むところです」
わたしは、微笑んだ。淑女の、仮面の微笑みで。
(三日。――あなたの帳簿を、こちらが検めるには、十分な時間だわ)
黒い馬車が、村はずれの宿へと去っていく。その車輪の音が遠ざかると、ギードが、苦い顔でわたしの横に並んだ。
「……令嬢様。あれは、ただの役人じゃない。中央で、五十年。判を押すだけで、村ひとつを飢えさせてきた男だ。公開の場で、衆目を前に、お前さんを丁寧に潰す気だぞ」
「ええ。わかっています」
「勝てるのか」
わたしは、懐から、一枚の古い紙片を取り出した。バルトロトの裏帳簿から、ただ一枚だけ抜き取って、隠しておいたもの。中抜きされた銀貨が、上納の名目で、どこへ流れたか――その一行だけが、書かれた紙。
「ギード。あの方は、一つ、思い違いをしています。自分は『監査する側』だから、自分の帳簿は誰にも検められない、と。――でも、検める者が、もう一人いるんです」
「誰だ」
「わたしです」
わたしは、その紙片を、そっと帳面に挟み戻した。
ヴォルフ様が、傍らで、低くつぶやいた。
「……俺には、その紙の数字は読めん。だが」彼は、わたしを見た。「お前が『黒字にできる』と言った領が、現に種を蒔き始めている。お前の数字は、嘘をつかない。それだけは、俺にもわかる」
不器用な、けれど、まっすぐな言葉だった。わたしは、母のそろばんに、そっと指を触れた。冷たい玉が、てのひらの熱を、静かに受け止めた。
監査する者と、される者。その立場が、三日後、どちらに転ぶのか。
辺境の風が、村はずれへ消えていく黒い馬車の金の縁取りを、うっすらと、砂で曇らせていった。
第13話、お読みいただきありがとうございます! ついに中盤の敵、中央財務伯ローデリヒ・フォン・ファルケ、本格登場です。慇懃で、冷酷で、エルナの武器(帳簿)をそっくり逆手に取ってくる、いちばん手強い相手。
そして、ヴォルフがエルナの前に立ちました。言葉は少ないけれど、いちばん強い盾。彼の背中、いかがでしたか?
舞台は、三日後の「公開監査」へ。監査する者と、される者――その立場、はたしてどちらに転ぶのか。ここからが、第二の大勝負です。
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