第12話:休耕地に、種を蒔く
財務官になって、最初にわたしがやったのは、領じゅうの「眠っているもの」を数えることだった。
両建ての帳には、ひとつの鉄則がある。赤字の裏には、必ず、使われていない資産がある。――死蔵された富。それを掘り起こせるかどうかで、再建の速さが決まる。
そして、この領にはそれが、あった。たっぷりと。
「休耕地?」
ヴォルフ様が、地図を覗き込んで言った。今日は、地図の上下は合っている。
「ええ。逃散した村の周りに、放り出されたままの畑が、これだけあります」
わたしは、地図の上に、印をつけていった。一つ、二つ、三つ。最後には、地図の北側が、印で埋まった。
「合わせて、およそ四十町歩。――ぜんぶ、雑草の生えるにまかせて、眠っています」
「眠っている、か」ヴォルフ様が苦い顔をした。「人が逃げて、耕す者がいなくなった。あれは、この領の傷あとだ」
「傷あとであり、宝の山です」
わたしは、母のそろばんを弾いた。
「畑は、ただそこにあるだけでは、一グルデンも生みません。けれど、耕して、種を蒔けば――来年、麦になる。麦は、税にも、食卓にもなる。眠ったままの四十町歩は、領の、いちばん大きな死蔵です」
「だが」とギードが口を挟んだ。「耕すには、人手がいる。種籾がいる。鋤も、牛もいる。――その金が、ない。今この領に、休耕地に注ぎ込む余裕など、どこにある」
そこが、いちばんの壁だった。
畑を生き返らせるには、先に金がいる。けれど、その金がないから、畑は眠ったままになっている。鶏が先か、卵が先か。――けれど、わたしは知っている。この堂々めぐりを断ち切る言葉を。
「元手を、入れるんです」
わたしは言った。
「今、金を使う。来年、もっと大きくなって返ってくる。――休耕地に種籾を入れるのは、浪費ではありません。元手です。投資、と言ってもいい」
「投資、とやらの元手は、どこから出す」
「二つ、当てがあります」
わたしは指を立てた。
「一つ。死蔵されているのは、畑だけじゃない。この領には、忘れられた交易権があります。先代の頃に取り決められた、旧街道の通行の権利。今は誰も使っていない。けれど、これを隣領の商人に一部だけ貸せば、当座の銀貨になります」
「もう一つは」
「――辺境伯の、私財です」
ヴォルフ様が、わたしを見た。わたしは、まっすぐに見返した。
「申し上げにくいことを言います。あなたの蔵にある、先代から受け継いだわずかな金。あれを、休耕地の種籾に使わせてください。領主が、自分の財布から、領の畑に元手を入れる。――それは、いちばん強い覚悟の見せ方です」
部屋が、静まった。
ヴォルフ様は、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと立ち上がり、奥の部屋から、小さな革袋を持って戻ってきた。じゃら、と鈍い音がした。
「父の、形見のようなものだ」
彼は、それを机に置いた。
「ずっと、手をつけずにいた。いざという時のための、最後の金だと思って。――だが」
彼は、わたしの作った帳面を、見た。今度は、逆さではなかった。
「畑が生き返るなら、これ以上の『いざという時』はない。使ってくれ。父も、土地が飢えるのを、いちばん嫌っていた」
わたしは、その革袋を、両手で受け取った。母のそろばんと同じ重さの、誰かの覚悟が、そこにあった。
種蒔きは、すぐに始まった。
交易権を貸して得た銀貨と、ヴォルフ様の私財。それを元手に、種籾を買い、鋤を直し、人を集めた。マルタが村を回って、声をかけてくれた。
そして――思いがけないことが起きた。
休耕地に人が入ったという噂が、領の外へ流れていったらしい。ある朝、館の門に、見慣れない一家が立っていた。荷車に、わずかな家財を積んで。
「あの……グラウフェルトの、畑が……戻せると、聞いて」
逃散した村の、出戻りだった。重い税に耐えかねて土地を捨て、よその領で小作をしていたという。けれど、税が下がり、畑がよみがえると聞いて、戻ってきた。
「うちの、じいさんの畑が、北にあるんです。……まだ、ありますか」
「あります」とわたしは答えた。「雑草だらけですが、土は生きています。耕せば、また実ります」
その一家のあとに、また一家。ぽつり、ぽつりと、人が戻り始めた。逃げていく人を数えていた帳面に、初めて、戻ってくる人を書き込む欄ができた。
そんなある日。
休耕地のあぜ道で、わたしが帳面をつけていると、小さな影が駆け寄ってきた。
「ねえお姉ちゃん! その玉っころ、なあに!」
マルタの村の、ニコという男の子だった。わたしの傍らに置いた、母のそろばんを、目を輝かせて見ている。
「これは、そろばん。数を、数える道具よ」
「かぞえる? おいら、十までしか数えられない! 教えて、教えて!」
わたしは、少し笑った。
畑のあぜに腰を下ろして、ニコの小さな指に、玉のすべらせ方を教えた。一を入れる。二を入れる。五で、上の玉を落とす。ニコは、ぱちぱちと玉を弾いては、「すごい! 百まで数えられる!」とはしゃいだ。
「ねえ、お姉ちゃん。これが数えられたら、おいら、なれる? お姉ちゃんみたいな、すごい人に」
不意の問いに、わたしは手を止めた。
「……なれるわ。数を数えられる人は、誰がずるをしているか、わかるようになる。誰かに『お前は何もわかっていない』と言われても、自分の頭で確かめられるようになる。――それは、剣より強い武器よ、ニコ」
ニコは、わからないという顔で、けれど嬉しそうに、また玉を弾いた。その小さな指の動きを見ていると、なぜだか、胸の奥が、しんとした。
(……わたしも、こうやって、母さんに教わったんだわ)
不思議だった。実家では「華がない」「数字をこねるだけ」と疎まれた、この指の動きが、ここでは、子供の宝物になる。
その晩の食卓には、戻ってきた一家が持ってきたという、少しばかりの根菜が並んだ。硬いパンと薄い豆のスープに、ほくほくの蕪が加わっただけ。それでも、この領に来て、いちばん豊かな食卓だった。
ギードが、めずらしく相好を崩していた。
「……人が、戻ってくるとはな。わしが生きているうちに、こんな日が来るとは」
けれど、その温かい食卓の最中に、馬の蹄の音が、館の前で止まった。
早馬の使者だった。泥にまみれ、息を切らして、彼は一通の書状を差し出した。中央財務府の、封蝋。先の通達の、続きだった。
わたしは、それを読んだ。そして、スープの匙を置いた。
『監査官として、中央財務伯ローデリヒ・フォン・ファルケが、自ら現地に赴く。三日後、グラウフェルトに到着する』
ローデリヒ・フォン・ファルケ。
裏帳簿を追っていたとき、一度だけ、見つけた名前。バルトロトの中抜きが、最後に流れ着いていた、その先の名前。
そして――わたしを、この辺境へ飛ばした、張本人の名前だった。
(……ご本人が、いらっしゃるのね)
蕪の湯気が、ゆっくりと立ちのぼっていた。
お読みいただきありがとうございます! 眠っていた休耕地に、ついに種が蒔かれました。「元手を入れる=投資」という考え方、辺境伯ヴォルフの覚悟とともに伝わったでしょうか。そして、逃げた人々が、少しずつ戻ってきます。ニコの「玉っころ」、可愛がってあげてください。
しかし、温かい食卓に、ついにあの男の影が。次回、中央財務伯ローデリヒ・フォン・ファルケ、本人登場です。慇懃で、冷たくて、いちばん厄介な敵。エルナの本当の戦いが始まります。
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