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第10話:黒字にできない人は、退場です

「最後に、一つだけ」


わたしは、二冊目の控えの、まだ開いていない頁を、めくった。


「代官殿。この三年で、あなたが手にしたお給金は、台帳によれば、年に三十グルデン。三年で、九十グルデン。間違いありませんね」


「……ああ」バルトロトの声は、もう、かすれていた。


「では、お尋ねします。あなたが昨年、隣領の商人から買い入れた、葦毛の馬。代金は、四十グルデン。今年あらたに建て増した、詰所の離れ。石工への支払いが、五十五グルデン。奥方が誂えた絹の外套が、十二グルデン。――ほかにも、まだ続けましょうか」


わたしは、母の算盤に指を置いた。


「あなたが、この三年で使った金。分かっているだけで、百八十グルデンを超えます。――給金は、九十グルデン。倍です。残りの九十は、どこから来たのでしょう?」


ぱちん、と玉が鳴った。


「人は、入ってきた以上のものを、使えません。それでも使えているなら――どこかから、抜いている。それだけのことです」


広間が、静まりかえった。


入ってきた以上の暮らし。それは、村の老婆が掲げる藁紐と、ちょうど同じ重さだった。村から消えた麦の袋が、葦毛の馬に変わり、絹の外套に変わっていた。難しい話は、何ひとついらなかった。誰もが、それを、理解した。


「……うそだ」バルトロトは、よろめいた。「私は、ちゃんと、領のために……」


「では、説明してください」わたしは静かに言った。「九十グルデンの、出所を。一の位まで、合うように。――できますか?」


彼は、口を開けた。けれど、声は出なかった。数字の前で、嘘は、行き止まる。


ヴォルフ様が、立ち上がった。広間の空気が、ぴんと張りつめる。


「バルトロト」


低い、けれど領主の声だった。


「過剰徴税。中抜き。私財への流用。――いずれも、この帳簿と、領民の証言が示している。お前は、領を肥やすどころか、領を喰っていた。逃げた村人も、荒れた畑も、お前が作った」


「辺境伯、お待ちを! これには、わ、訳が……」


「代官の職を解く」


ヴォルフ様は、それ以上、声を荒げなかった。荒げる必要が、なかった。


「沙汰は追って下す。それまで、領内での徴税の一切を禁じる。――立て」


徴収人だった男たちは、もう、バルトロトの側にいなかった。彼らは目を伏せ、一歩、また一歩と、彼から離れていく。数字が指し示したものは、彼らにも見えていた。沈む船から、人が降りていく。


そのときだった。


歓声が、広間を満たした。


村長のマルタが、声を上げて泣いていた。老婆が、藁紐を握りしめて天を仰いでいた。ニコが、わけも分からないまま、けれど嬉しそうに飛び跳ねていた。三年――いや、もっと長いあいだ、「仕方のないこと」と諦めてきた人たちが、初めて、自分たちの側に立ってくれる数字を、見たのだ。


(これが――黒字化の、最初の手応え)


取り返した二百グルデン。来季から正される税。留まることを選んだ村人。畑は、まだ荒れたままだ。けれど、もう、痩せていく一方ではない。種を、まける土地に戻った。


わたしは、母の算盤を、そっと撫でた。


(母さん。両建ての帳は、ちゃんと、誰かを救えたみたい)


立ち上がろうとしないバルトロトに、わたしは、最後に、淑女の声で告げた。


「代官殿。あなたは、領を黒字にできなかった。いいえ――赤字にした上で、その赤字を、ご自分の懐に付け替えた。財を預かる者が、それをしては、いけません」


ぱちん、と、玉を一つ、戻した。


「黒字にできない人は、退場です。――数字の世界では、それが、ただ一つの道理ですから」


歓声の中、引き立てられていくバルトロト。けれど、広間を出る間際、彼は足を止め、こちらを振り返った。その顔に浮かんでいたのは、罪を悔いる色ではなかった。もっと暗い、何かを諦めたような笑みだった。


「……勝った気か、小娘」


声は、低かった。わたしにだけ、届くように。


「賦課の追加分。ファルケ様の署名。――あれを、まだ読み解けていないだろう。私が抜いた金など、川の、ほんの一滴だ。本当の流れは、もっと上にある。これは、私の絵図じゃない。上の……中央の、絵図だ」


彼は、それだけ言うと、力なく笑った。


「お前は、辺境の代官一人を、罷免しただけだ。だが、その先に何がいるか――知ったときには、もう、後戻りはできんぞ」


引き立てられて、彼は消えた。歓声は続いていた。けれど、わたしの耳には、もう、それは半分しか入っていなかった。


賦課・追加分。ローデリヒ・フォン・ファルケ。中央の、財務伯。


中抜きの川は、代官の懐で終わってはいなかった。その上に、もっと太く、静かな流れがある。バルトロトは、その川の、いちばん下流で、しぶきを舐めていたにすぎない。


(……本当の帳簿は、王都にあるのね)


わたしは、二冊目の控えに残された、ファルケの署名を、じっと見た。インクの、几帳面な筆跡。代官の中抜きとは違う、もっと制度の顔をした、もっと大きな搾取の影。


ヴォルフ様が、隣に立った。彼も、その名を、見ていた。


「……ライゼンタール殿。この戦いは、まだ終わらんのだな」


「ええ」わたしは、母の算盤を、懐にしまった。「終わりません。けれど、辺境伯。一つ、はっきりしたことがあります」


「なんだ」


「下流を一つ、せき止めました。次は――上流の番です」


灰の境から、冷たい風が吹いてくる。けれど、広間の人々の顔は、たしかに、温かかった。


赤字の辺境の、最初の黒字。それを取り戻した日。


そして、本当の敵の名を、初めて知った日だった。


第10話、最後までお読みいただき、本当にありがとうございます! 代官バルトロト、ついに罷免――公開査定での「数字によるざまぁ」、いかがでしたか? 声を荒げず、暴力も使わず、ただ一の位まで詰めていく。「黒字にできない人は、退場です」――エルナの、いちばん静かで、いちばん痛い一言でした。


そして、罷免されたバルトロトが漏らした「これは、中央の絵図だ」。中抜きの川は、もっと上へ続いていました。中央財務伯ローデリヒ・フォン・ファルケ――エルナを辺境へ飛ばした、本当の張本人かもしれない男。物語は、辺境の戦いから、中央との戦いへ。


ここまで応援してくださった皆さま、本当にありがとうございます! 「上流の番」を見届けたい方は、ぜひブックマーク・★評価で応援していただけると、次の更新のいちばんの力になります。次回からの第2幕も、どうぞよろしくお願いします!


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