第9話 薬香、知性を繋ぐ
碧落草の一件で、淵明は謝家の力を独断で振るったことについて、兄から厳しい叱責を受けた。
「此度は陛下がかつての学友としての情に免じ、大目に見てくださったに過ぎぬ。履き違えるな、次はないと思え」
「……肝に銘じます。二度と、兄上や家名を泥に塗る真似はいたしません」
兄の言葉は、淵明の胸に深く刺さった。一族の誇りを汚し、兄を窮地に立たせることは本望ではない。
何より、己の強引な捜査が友人を死の淵に追いやり、さらには協力者である素素までもが、いつか「闇」の標的になりかねないという現実を、彼は痛烈に突きつけられていた。
(……私の独りよがりな『正義』が、周誠の命を削り、彼から未来を奪いかけた。それだけではない。何の罪もない素先生まで、この薄汚れた権力争いの渦中へと引きずり込んでしまった)
脳裏に、毒に侵され青ざめた親友の顔と、凛としていながらもどこか儚い素素の立ち姿が浮かぶ。
(もし、彼女にまであの凶刃が向けられたら? 私の無思慮な一歩が、彼女の雪のような清廉さを、闇で塗り潰すことになったら――)
その想像は、かつて戦場で受けたどんな傷よりも鋭く、淵明の心を切り刻んだ。
(二度と、あんな思いはさせない。たとえ牙を抜かれたと嘲笑われようとも、今は、彼女たちを守るための盾にならねばならぬのだ)
以後、淵明は表立った強硬手段を自らに禁じた。それは屈服ではなく、大切な者たちを守るための、静かなる忍耐への転向であった。
◇
大理寺の建物から、夜を徹しての捜査を終えた謝淵明が姿を現した。向かう先は、都の喧騒から少し外れた下町にある素素の薬房だ。
都で次々と発生する難事件。その捜査の要となっているのは、素素の薬学的な知見であった。
淵明はその鋭い観察眼で現場に残された微かな痕跡を掬い上げる。素素は豊富な知識でその深淵を解き明かす。
二人の間に流れるのは、互いの能力に対する純粋な称賛であった。
淵明は、大理寺承という肩書に怯むことなく淡々と事実を告げる彼女を、自分と同じ熱量で真実を追うことのできる「唯一の同格者」と見なしている。
一方の素素もまた、彼に対して並々ならぬ敬意を抱いていた。どんなに難解な医学的根拠を説明しても、彼は即座にその本質を理解し、さらに法官としての鋭い視点から、事件を解決へ導く「次の一手」を提示してくるからだ。
(この人は、私の語る理の本質を、即座に掴み取ってくれる)
それは、これまで誰にも分かち合えなかった自分の知性が、初めて「孤独」から解放された喜びでもあった。私情を挟まず、ただ事実のみを探求し続ける淵明の峻烈な姿勢を、素素は深く信頼していたのである。
薬房の奥、立ち上る薬草の湯気の向こうで、二人は並んで机を囲む。淵明が現場で得た証拠を差し出せば、素素はそれを冷静に分析していく。
「この毒は、特定の時期に採取せねばこれほどの毒性は得られません。つまり、犯人は――」
「――季節を知り、流通を掌握できる立場の者、か」
二人の知性が静かに共鳴し、混迷を極める都の暗闇の中に、一筋の正義が形を成していく。
その瞬間に流れる空気は、甘やかな恋情というよりも、魂の深部で繋がった「相棒」としての確かな絆に満ちていた。
「最近、師である神医殿から連絡はあるのか」
淵明がふと問いかけると、素素は手元の薬草を整理しながら答えた。
「はい、何度か文が届きました。都のような喧騒の場からは早々に引き揚げ、江南の山へ帰ってこいと……私の身を案じているようです」
その言葉を聞いた瞬間、淵明の眉間にかすかな陰りが差した。
「……まさか、本当に帰るつもりではないだろうな?」
その問いは、いつもの快活な彼には珍しく、どこか縋るような響きを含んでいた。
素素は彼の不安をなだめるように、柔らかな微笑みを浮かべて顔を上げる。
「いいえ。ここには私を頼りにしてくださる方々がいますから。……それに」
「それに?」
「……いえ。私を必要としてくださる場所があるのは、ありがたいことです」
言葉を飲み込み、静かに微笑み続ける彼女を見つめ、淵明は深く頷いた。
そして、自分自身に深く言い聞かせるように、真っ直ぐに彼女の瞳を見据えて告げた。
「素先生。君は私の、かけがえのない相棒だ」
その声は、法を司る官吏としての宣言のようでもあり、一人の男としての切実な誓いのようでもあった。
向けられたあまりに強い光を真っ向から受け止め、素素は小さく息を吸う。そして、静かに微笑を湛えたまま答えた。
「……光栄なことです、謝殿」
◇
青く澄み渡った空から、柔らかな陽光が降り注ぐ午後。都の喧騒を離れた路地裏にある素素の薬房に、重なる二人の足音が近づいた。
かつて毒に冒され、死の淵を彷徨ったとは思えないほど、周誠の足取りは力強い。その隣には、どこか憑き物が落ちたような、穏やかな表情を湛えた淵明が並んでいた。
「素先生、入るぞ」
淵明の声に応じるように、奥から薬草の香りと共に素素が姿を現した。
「周殿、お加減はいかがですか。……まあ、顔色もすっかり良さそうで安心いたしました」
素素の言葉に、周誠は相好を崩した。彼は携えてきた上質な茶葉と絹の包みを棚に置くと、真摯な眼差しを向けた。
「おかげさまで、この通りだ。あの時は本当に、死の淵から引き戻していただいた思いでいる。素先生、貴女がいなければ今頃私は土の下だった。感謝してもしきれぬ」
「私はただ、あの日持っていた薬草が周殿の症状に合っただけのこと。運が良かったのです」
謙遜する素素の隣で、淵明が不意に周誠の肩を軽く叩いた。
「周誠、感謝するのはいいが、あまり素先生を困らせるな。
名も知らぬ市井の薬師だった彼女を、無理やりこの事件の渦中に引きずり込んだのは私だ。彼女の知恵を借りなければ、お前の仇も討てぬところだった」
「おい淵明、それを言うな。……まあ、あの時飲まされた煎じ薬の凄まじい苦さは、確かに二度と味わいたくないがな」
周誠が苦笑いしながら頭を掻くと、淵明もまた、法官の仮面を脱ぎ捨て、親友の前で見せるような気安い笑みを漏らした。
そんな二人のやり取りを、素素は静かに見つめた。
彼女が守りたかったのは、この穏やかな時間であり、正義のために身を削る謝淵明という一人の男が、ようやく手にする安らぎのときであった。
「お二人とも、本当に仲がよろしいのですね」
素素はそう言って、慈しみに満ちた微笑みを浮かべた。




