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第10話 相棒の死角

淵明ユェンミンが薬房を訪れるようになり、見えてきたものがある。


ある日の夕方。素素スースーは薬房の片隅で、淵明が持参した記録に目を通していた。ふと視線を上げると、向かいに座る淵明が、片手で何かを口に運んでいるのが目に入る。


それは、彼が昼食用に調達したのであろう、冷え切って固くなった饅頭だった。しかし、彼は事件の証拠品である割れた陶器の破片を凝視するあまり、自分が何を食べているのか、もはや意識にないようだった。


「……シェ殿。その饅頭、紙がついたままですよ」

「ん? ……ああ、これか。些細なことだ」


淵明は全く動じず、あろうことか紙がついたままの饅頭を、そのまま口に放り込もうとした。


「お待ちください!」


素素はたまらず立ち上がり、彼の口元から饅頭をひったくった。


「紙は食べられません。それに、そんな冷えて固まったものを……。あなたの胃が心配で仕事になりません」


淵明は「食えれば何でも同じだろう」と言いたげな顔をしたが、素素の呆れ果てた視線を感じ、大人しく口を閉じた。

素素は仕方なく、薬草を蒸すための蒸籠せいろの隅で、その饅頭を温め直してやった。ついでに、自分の夕食用に作っておいた、細切りの大根を和えた小皿を差し出す。


「いいですか、謝殿。優れた知性を働かせるには、まず身体という器を整えねばなりません。あなたは外では立派な正義を語るのに、ご自分の胃袋にはずいぶんと不誠実なのですね」

「……耳が痛いな。だが、君が用意してくれるものは、不思議と喉を通る」


淵明は、差し出された温かい饅頭を一口頬張ると、ふっと目元を緩めた。

都の悪党どもが名を聞くだけで震え上がる大理寺承だいりじじょうが、湯気を立てる饅頭ひとつで、まるで拾われた大型犬のように大人しくなる。

外での威厳をどこかに置き忘れてきたようなその無防備な姿を見て、素素の唇から小さく笑みがこぼれた。


(名門、謝家の次男様が聞いて呆れるわね)


呆れが半分、残りの半分は――言葉にできない慈しみだった。



都の喧騒が落ち着いた夕暮れ時。任務を終えた淵明と周誠ジョウ・チョンは、事件解決の報告を兼ねて薬房へ立ち寄った。


「素先生のおかげで此度の事件も無事に解決した。感謝する」


淵明の言葉に、素素は静かな笑みを返す。すかさず周誠がその横から首を突っ込んだ。


「先生、これから一緒に夕食へ行きませんか? 馴染みの美味い屋台があるんです」

「まあ。お招きいただけるなら、喜んで」


――そうして、三人で行きつけの屋台を囲むことになった。

淵明は豪快に麺をすすり、周誠はいつものように周囲に気を配り、素素はその隣で温かい茶を手にしている。

ふと、屋台の向こうから賑やかな笛の音が聞こえてきた。祭りの触れ歩きだ。

色とりどりの風車や、細工を施した可愛らしいかんざしを並べた行商が通りかかる。  


「わあ……」


素素の口から、感嘆の吐息が漏れた。

どんな高価な宝飾品を見ても「薬草の方が価値があります」と淡々としていそうな彼女。

しかし、身を乗り出し、潤んだ瞳で風車を追いかけ、無意識に自分の髪に触れる。その仕草は、背伸びを止めた十九歳の少女そのものの、瑞々しく愛らしいものだった。 

隣にいた周誠は、その変化に即座に気づく。


(おや……素先生も、やっぱりお年頃なんだな。あんな風に目を輝かせて。……淵明、今こそお前の出番だぞ)


周誠は期待を込めて、隣で一心不乱に麺を啜っている男を肘で突いた。


「おい、淵明。見ろよ。素先生、あんなに……」


促された淵明は、口いっぱいに麺を頬張ったまま、のっそりと顔を上げた。

素素は、今にも「あの簪、少し見てきてもいいでしょうか?」と言い出しそうな、期待に満ちた顔で淵明を振り返る。


「ん? ……どうした、二人して。私の顔に何かついているか?」


淵明は、素素の期待に満ちた眼差しも、周誠の目配せも、微塵みじんも理解していない。

それどころか、彼は喉を鳴らして快活に笑うと、唇の両端を満足げに吊り上げた。

普段、大理寺で怪事件を追うときの冷徹な鋭さはどこへやら、今はただの「腹を空かせた大雑把な男」の顔だ。

彼は屈託のない笑顔を浮かべたまま、素素の前に、自分が食べようとしていた「皿に残った最後の手羽先」をひょいと差し出した。


「ああ、分かった! 素先生、腹が減っているんだろう。遠慮せず、これを食べなさい。そんなに目を輝かせて、よっぽど空腹なんだな!」

「…………え?」


素素の動きが止まる。

彼女はただ可愛い簪を見に行きたかっただけ。しかし、目の前に差し出されたのは、タレでぎらぎらと光る肉の塊だ。


「さあ食べて! 素先生がそれほど食欲を露わにするとは、明日の捜査は一段と激しくなりそうだ」


淵明はハハハと上機嫌で笑い、満足げに自分の茶を飲み干した。

あまりに迷いのない勘違いに、素素は手に持っていた茶杯を少しだけ強く握りしめ、ふい、と顔を背けた。その頬は、怒りか、それとも羞恥か、うっすらと赤く染まっている。


「……謝殿。私は別にお腹は空いていません。……結構です!」

「ええ?遠慮せず、さあ!」


全く噛み合わないやり取りを横で見ていた周誠は、天を仰いで深い溜息をついた。


(……やれやれ。これだから、こいつは……)


淵明の目に映る素素は、いついかなる時も「頼れる相棒」であり、それ以外の属性は全て「雑」に削ぎ落とされてしまうのだ。


「……淵明。お前、いつかその雑さで、素先生に本気で毒を盛られても文句は言えねえぞ」

「毒? 何の話だ? 素先生が私に毒を盛る理由なんて、一つもないだろう」


ケロリとした顔で言い放つ淵明の横で、素素は無言のままだ。

一瞬の沈黙の後、彼女は差し出された手羽先をバシッと箸で掴み、ヤケクソ気味に口に運ぶのだった。


周誠は、その光景を「まあ頑張れ、友よ」と心の中で念じながら、静かに見守るしかなかった。



近ごろ、都のあちこちで、若者や腕利きの職人が煙のように姿を消す「神隠し」が相次いでいた。



暮鼓ぼこの音が遠くから響き渡り、朱に染まっていた都の空が急速に夜の色へ沈んでいく。


風流な容姿をした若い男は、家路を急ぐように歩調を速めていた。広大な大通りを折れ、人目のない薄暗い路地へと足を踏み進めた、その刹那。

――音もなかった。

まるで闇そのものが形を成したかのように、黒衣の集団が忽然と男を取り囲む。


「なっ……、私はジャン家の者だぞ! 命が惜しくないのか!」


天下の名門の威光を傘に着た叫びは、夜の静寂に無残にかき消される。

若い男は悲鳴をあげる間もなく口を塞がれ、激しいもみ合いの末、影に引きずり込まれるようにして闇の彼方へと連れ去られた。


あとに残されたのは、不気味なほど静まり返った路地。そこに、男が身につけていた小物が一つ、ぽつりと落ちていた。

精緻な金糸で「張」の紋様が刺繍された、上質な絹の香り袋。それは手荒に引きちぎられたのか、千切れた紐が夜風に寂しく揺れている。

中からこぼれ出た、高価な薫香の残り香だけが、暗がりに漂っていた。



都は、名門・張家の若君が「神隠し」に遭ったという噂で持ちきりだった。

しかも、消えたのは彼だけではない。

ちまた酒肆しゅしや茶館では、人々が顔を寄せ合い、怯えた声で奇妙な連続失踪事件を囁き合っている。


「――聞いたか? 張家の若君に続いて、あの高名な老絵師までもが神隠しに遭ったそうだ」

「絵に魂が宿るとまで言われた、あの御仁か。なんでも、陛下直々の御命ぎょめいを賜り、慈恩寺じおんじの壁画を描いていた最中、忽然と姿を消したらしい」

「若君も、その絵師が描く壁画を熱心に見学されていたとか……。まさか、描きかけの神仏の絵が、二人をそのまま連れ去ったのではあるまいな」


若君には「一度耳にした言葉を書き漏らさず、あらゆる国の言語を解する」という、卓越した記憶力と語学の才があった。

そして老絵師には、見たものをそのまま命あるものとして写し取る神業があった。

都に轟く二人の天才が、同じ寺から白昼堂々姿を消したのだ。


噂は尾ひれをつけて街を駆け巡り、いつしか「妖異よういの仕業」として人々の心を震え上がらせていた。大路を行き交う人々の顔には、目に見えない怪異への恐怖が、じわじわと影を落とし始めていた。



ちまたが目に見えない怪異の噂に怯える中、大理寺承として捜査の全権を握る謝淵明だけは、冷徹に「現実」を見つめていた。


「神隠し、か。ずいぶんと都合の良い神もいたものだな」 


淵明は、慈恩寺の現場に残された微かな、だが確実に「人間」が残した足跡を睨み据える。

槍の名手である彼は、武人ならではの空間感覚と鋭い観察眼で、土に刻まれた歩幅の乱れ、衣服の繊維、そして僅かに残された香り袋の残り香といった断片的な証拠を、大理寺の執務室で緻密に繋ぎ合わせていった。


それは、盤上の敵を袋小路へ追い詰める戦型を組み立てるかのようだった。指揮官として配下の役人たちを動かし、容疑者たちの退路を一つずつ確実に潰すように、静かに、しかし執拗に痕跡を追い詰めていく。



そしてついに、淵明は暴き出した。

これが妖異の仕業などではなく、冷酷な計算の上に成り立つ「組織的な人身売買」であるというおぞましい事実を。

奴らは、都の闇に巣食う巨大な集団であり、その歪んだ目的のために、他を圧倒する「優れた特技を持つ人間」ばかりを狙って拉致していたのだ。


淵明の瞳に、戦場で見せるような鋭い眼光が宿る。その眼差しから楽天家のおおらかさは完全に消え去った。そして事件の深層に潜む巨悪を絶対に逃がさないという、執念の笑みが唇に刻まれていた。



執拗な追跡の末、淵明が泳がせた網に掛かったのは、その巨大な組織の裏帳簿を管理している一人の男だった。


だが、大理寺が本格的な捕縛へと動こうとする、まさにその直前だった。

男は「持病が急激に悪化した」と称し、市井しせいで評判の薬師である素素へ、至急の回診を依頼したのだ。


駆けつけた素素は、男の寝所に足を踏み入れた瞬間、その異様な光景に息を呑んだ。

男は喉を掻きむしり、全身を弓なりに反らせて苦悶している。白目を剥き、唇は不気味な紫色に変色していた。


「――っ、これは持病などではないわ……!」


駆け寄って即座に脈を取り、男の瞳孔を覗き込んだ素素の目が大きく見開かれる。

彼女は驚愕しながらも、薬師としての使命感から神速の処置を施し、男の命を現世に繋ぎ止めてしまった。


しかし、それがその場に潜んでいた潜入者たちの計算を、大きく狂わせることとなる。


「死ぬはずの男を救うとは、厄介な女だ」


暗殺を台無しにされた賊たちは、隠密行動を捨て、力ずくで男の首を掻き切った。

そして、血溜まりの中で息を荒くして立ち尽くす素素を見つめ、その非凡な医術に、新たな「利用価値」を見出すのだった。

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