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第11話 同格者への信頼

大理寺が静まり返った邸宅の扉を蹴破ったとき、そこに残されていたのは、冷たくなった男の遺体だけだった。


「……遅かったか」


苦い悔恨に拳を握りしめた淵明ユェンミンの目に、床に転がる見覚えのある物が飛び込んできた。

それは、彼が都で最も信頼を寄せる素素スースーの薬箱であった。中からは使いかけの生薬がこぼれ落ち、争った跡が生々しく残っている。


(……なぜ、ここに。彼女がこんな場所にいるはずがない。……だが、これは間違いなく、スー先生の薬箱だ)


拾い上げた木箱の、見慣れた傷が淵明の視界を歪ませる。

混乱と戦慄が彼を襲った。二人の協力関係は公にしておらず、彼女が捜査に巻き込まれる筋合いなどないはずだ。

それなのに――彼女がこの「死の現場」に居合わせてしまったという残酷な現実が、淵明の背筋を凍らせる。


唯一の同格者であり、誰よりも信頼する相棒が、自分の追っていた闇へと引きずり込まれたのだ。


周誠ジョウ・チョン、素先生が失踪してないか調べろ」


血の匂いが漂う静寂の中、いつも冷徹な淵明の瞳に焦燥が激しく燃え上がる。


「素先生の行方を追え。……今すぐだ!」


地を這うよな淵明の怒声が、凄惨な室内に響き渡った。



廃業して久しい広大な庭園「千鴉園せんあえん」。その鬱蒼とした外周を、淵明が率いる大理寺の精鋭たちが、息を潜めて音もなく包囲していく。


素素が失踪したという報に接した際、淵明の胸を去来したのは「怒り」という安っぽい激情よりも、むしろ「損失への危機感」であった。

――自分と同じ地平で真実を見つめ、闇を照らすことのできる、唯一無二の同格者。


(彼女の命がこの世から永遠に失われることは、国家にとって――いや、私自身にとっても、絶対にあってはならないことだ)


淵明は乱れる呼吸を周囲に悟られぬよう、一度だけ深く息を吐き、ゆっくりと目をつぶった。瞼の裏に浮かぶのは、彼女が静かに微笑む姿だ。


謝承シェじょう! 賊からの要求です!」


伝令に走った配下の声が震える。


「奴ら、人質を盾に立て籠もりました! 『捜査を即座に中止し、獄中の仲間を釈放せよ』と……!」


その報告を聞き、包囲陣の後方に控える役人たちがにわかに騒然とした。


「人質の中には名家のご子息もいるのだぞ!」

「陛下の寵愛する絵師もだ! 万一のことがあれば、我らの首が飛ぶ!」


喧騒の中、周誠が声を潜めて淵明に囁いた。


「……素先生も、あの人質の中にいる」


誰もが正気を失いかける揺さぶりの中、だが、淵明は眉ひとつ動かさない。


「私情は一切挟まぬ。手順通りに外堀を埋め、一網打尽にする」


凍りつくような声だった。部下たちに下されたその命令は、人質の命すら交渉の道具にさせない、どこまでも冷徹な鉄の意志の表れであった。


「人質の安全は、我々が最短で賊を制圧することによってのみ保証される。迷いは死を招き、遅滞は犠牲を増やす。皆、策に従い最速で動け」


彼は、素素という女性を信じていた。もし彼女が逆の立場であったなら、決して安易な情に流され、敵に妥協することなどないだろう。


(最も合理的で、最も成功率の高い手段を私に求めるはずだ)


その確信だけが、彼の心を氷のように鋭く研ぎ澄ませていた。


淵明は焦りを見せることなく、じわじわと包囲網を狭めていく。賊が人質を盾に釈放を叫ぶ中、彼は大理寺の正規の手順に則って冷酷に退路を断ち、敵の戦意を確実に削いでいった。



包囲網は完全に完成し、もはや千鴉園からねずみ一匹這い出る隙もない。

張り詰めた沈黙に耐えかねたように、配下の一人が小声で伺いを立てた。


「謝承、包囲は完了しました。そろそろ……突入の許可を。人質たちの安否が心配です」

「まだだ」


淵明は短く一蹴した。その視線は、ただ真っ直ぐに、敵の退路が完全に塞がるその一瞬だけを凝視している。



ついに、突入の瞬間を迎えた。

合図と共に門を蹴破り、先陣を切ったのは大理寺承・謝淵明、その人であった。


かつて戦場を駆けたその長槍が、都の闇の中で鈍い銀光を放つ。遮るように躍り出てきた三人の賊を、淵明は一歩も歩調を緩めることなく、ただ一薙ぎで倒した。風を裂く鋭い一閃が、賊の防衛線を紙切れのように切り裂いていく。


淵明の開けた穴へ、大理寺の配下たちが怒涛の勢いで雪崩れ込んだ。日頃の鍛錬に裏打ちされた無駄のない連携で、逃げ惑う賊を次々と組み伏せ、瞬く間に退路を制圧していく。


長槍を手に庭園の狭い通路を進む淵明。色めき立つ異国の腕利きの傭兵たちが視界に入る。

(⋯⋯西域の者たちか)

敵の一人が、狭い通路を逆手に取り、湾曲した大刀で淵明の喉元を切り裂こうと躍り出た。長い得物えものはここでは障壁にしかならない――敵がそう確信した刹那。


――閃光が走った。

淵明の手の中で、愛槍が生き物のようにしなった。

振り回すのではない。空間を一分一厘いちぶいちりんの狂いもなく計算し尽くした、限界まで無駄を削ぎ落とした「直線」の突き。

鋭い風切り音と共に、槍尖は敵の刃を正確に弾き飛ばし、そのまま胸元を深く穿つ。


強靭な体躯が滑るように翻る。

繰り出される槍は一突きで三人、四人の敵を壁際へと縫い止めていった。


「退路はもう、どこにも残っていない」


薄い唇に冷徹な勝利の笑みを浮かべ、血に濡れた槍を構え直す大理寺承の姿は、まさに戦場で数々の首級をあげてきた、一騎当千の若き将軍そのものだった。



悲鳴と怒号が飛び交う乱戦の中、しかし、淵明の視線だけは微動だにしない。彼は真っ直ぐに、最奥に構える頭領を見据えた。


「貴様、大理――」


頭領が刀を突き出すよりも早く、猛然と突き出された槍先が、風を巻き込んでその喉元へ肉薄する。ガキィン、と激しい金属音が響いた次の瞬間には、頭領の刀は遥か天井へと跳ね飛ばされていた。


圧倒的な破壊力と無駄のない槍捌き。淵明は返す石突いしづきで頭領の鳩尾みぞおちを深く打ち据え、息の根を止める寸前の正確さで、床へと叩き伏せて瞬時に制圧した。



周囲を見渡せば、大理寺の精鋭たちが庭園を完全に支配していた。

淵明が包囲中に仕掛けた『策』――園内の排水路に流し込んだ催眠煙が、密かに賊たちの動きを鈍らせていたのだ。毒に侵され、武器を落として膝をつく賊たちを、官吏たちが次々と制圧していく。

もはや掃討は時間の問題だった。

淵明は捕らえた頭領を部下に引き渡し、低く命じる。


「――あとは任せる。制圧を完了させろ」


言い捨てると同時に、淵明の視線が横へと走る。そこには、恐怖のあまり腰を抜かして怯える賊の男が転がっていた。

逃げようとする男の首根っこを掴み上げ、淵明は冷たい氷のような瞳で見下ろした。


「……地下へ案内しろ」


返り血を浴びた冷たい声が響く。


怯える男に重い石扉の仕掛けをこじ開けさせ、淵明は、人質たちが捕らえられている地下牢へと足を踏み入れた。

地上からの光が遮断された、闇に閉ざされた牢獄。

湿った冷気のなかで、壁に掲げられた松明の火だけが不気味に揺れていた。

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