第11話 同格者への信頼
大理寺が静まり返った邸宅の扉を蹴破ったとき、そこに残されていたのは、冷たくなった男の遺体だけだった。
「……遅かったか」
苦い悔恨に拳を握りしめた淵明の目に、床に転がる見覚えのある物が飛び込んできた。
それは、彼が都で最も信頼を寄せる素素の薬箱であった。中からは使いかけの生薬がこぼれ落ち、争った跡が生々しく残っている。
(……なぜ、ここに。彼女がこんな場所にいるはずがない。……だが、これは間違いなく、素先生の薬箱だ)
拾い上げた木箱の、見慣れた傷が淵明の視界を歪ませる。
混乱と戦慄が彼を襲った。二人の協力関係は公にしておらず、彼女が捜査に巻き込まれる筋合いなどないはずだ。
それなのに――彼女がこの「死の現場」に居合わせてしまったという残酷な現実が、淵明の背筋を凍らせる。
唯一の同格者であり、誰よりも信頼する相棒が、自分の追っていた闇へと引きずり込まれたのだ。
「周誠、素先生が失踪してないか調べろ」
血の匂いが漂う静寂の中、いつも冷徹な淵明の瞳に焦燥が激しく燃え上がる。
「素先生の行方を追え。……今すぐだ!」
地を這うよな淵明の怒声が、凄惨な室内に響き渡った。
◇
廃業して久しい広大な庭園「千鴉園」。その鬱蒼とした外周を、淵明が率いる大理寺の精鋭たちが、息を潜めて音もなく包囲していく。
素素が失踪したという報に接した際、淵明の胸を去来したのは「怒り」という安っぽい激情よりも、むしろ「損失への危機感」であった。
――自分と同じ地平で真実を見つめ、闇を照らすことのできる、唯一無二の同格者。
(彼女の命がこの世から永遠に失われることは、国家にとって――いや、私自身にとっても、絶対にあってはならないことだ)
淵明は乱れる呼吸を周囲に悟られぬよう、一度だけ深く息を吐き、ゆっくりと目をつぶった。瞼の裏に浮かぶのは、彼女が静かに微笑む姿だ。
「謝承! 賊からの要求です!」
伝令に走った配下の声が震える。
「奴ら、人質を盾に立て籠もりました! 『捜査を即座に中止し、獄中の仲間を釈放せよ』と……!」
その報告を聞き、包囲陣の後方に控える役人たちがにわかに騒然とした。
「人質の中には名家のご子息もいるのだぞ!」
「陛下の寵愛する絵師もだ! 万一のことがあれば、我らの首が飛ぶ!」
喧騒の中、周誠が声を潜めて淵明に囁いた。
「……素先生も、あの人質の中にいる」
誰もが正気を失いかける揺さぶりの中、だが、淵明は眉ひとつ動かさない。
「私情は一切挟まぬ。手順通りに外堀を埋め、一網打尽にする」
凍りつくような声だった。部下たちに下されたその命令は、人質の命すら交渉の道具にさせない、どこまでも冷徹な鉄の意志の表れであった。
「人質の安全は、我々が最短で賊を制圧することによってのみ保証される。迷いは死を招き、遅滞は犠牲を増やす。皆、策に従い最速で動け」
彼は、素素という女性を信じていた。もし彼女が逆の立場であったなら、決して安易な情に流され、敵に妥協することなどないだろう。
(最も合理的で、最も成功率の高い手段を私に求めるはずだ)
その確信だけが、彼の心を氷のように鋭く研ぎ澄ませていた。
淵明は焦りを見せることなく、じわじわと包囲網を狭めていく。賊が人質を盾に釈放を叫ぶ中、彼は大理寺の正規の手順に則って冷酷に退路を断ち、敵の戦意を確実に削いでいった。
包囲網は完全に完成し、もはや千鴉園から鼠一匹這い出る隙もない。
張り詰めた沈黙に耐えかねたように、配下の一人が小声で伺いを立てた。
「謝承、包囲は完了しました。そろそろ……突入の許可を。人質たちの安否が心配です」
「まだだ」
淵明は短く一蹴した。その視線は、ただ真っ直ぐに、敵の退路が完全に塞がるその一瞬だけを凝視している。
ついに、突入の瞬間を迎えた。
合図と共に門を蹴破り、先陣を切ったのは大理寺承・謝淵明、その人であった。
かつて戦場を駆けたその長槍が、都の闇の中で鈍い銀光を放つ。遮るように躍り出てきた三人の賊を、淵明は一歩も歩調を緩めることなく、ただ一薙ぎで倒した。風を裂く鋭い一閃が、賊の防衛線を紙切れのように切り裂いていく。
淵明の開けた穴へ、大理寺の配下たちが怒涛の勢いで雪崩れ込んだ。日頃の鍛錬に裏打ちされた無駄のない連携で、逃げ惑う賊を次々と組み伏せ、瞬く間に退路を制圧していく。
長槍を手に庭園の狭い通路を進む淵明。色めき立つ異国の腕利きの傭兵たちが視界に入る。
(⋯⋯西域の者たちか)
敵の一人が、狭い通路を逆手に取り、湾曲した大刀で淵明の喉元を切り裂こうと躍り出た。長い得物はここでは障壁にしかならない――敵がそう確信した刹那。
――閃光が走った。
淵明の手の中で、愛槍が生き物のようにしなった。
振り回すのではない。空間を一分一厘の狂いもなく計算し尽くした、限界まで無駄を削ぎ落とした「直線」の突き。
鋭い風切り音と共に、槍尖は敵の刃を正確に弾き飛ばし、そのまま胸元を深く穿つ。
強靭な体躯が滑るように翻る。
繰り出される槍は一突きで三人、四人の敵を壁際へと縫い止めていった。
「退路はもう、どこにも残っていない」
薄い唇に冷徹な勝利の笑みを浮かべ、血に濡れた槍を構え直す大理寺承の姿は、まさに戦場で数々の首級をあげてきた、一騎当千の若き将軍そのものだった。
悲鳴と怒号が飛び交う乱戦の中、しかし、淵明の視線だけは微動だにしない。彼は真っ直ぐに、最奥に構える頭領を見据えた。
「貴様、大理――」
頭領が刀を突き出すよりも早く、猛然と突き出された槍先が、風を巻き込んでその喉元へ肉薄する。ガキィン、と激しい金属音が響いた次の瞬間には、頭領の刀は遥か天井へと跳ね飛ばされていた。
圧倒的な破壊力と無駄のない槍捌き。淵明は返す石突で頭領の鳩尾を深く打ち据え、息の根を止める寸前の正確さで、床へと叩き伏せて瞬時に制圧した。
周囲を見渡せば、大理寺の精鋭たちが庭園を完全に支配していた。
淵明が包囲中に仕掛けた『策』――園内の排水路に流し込んだ催眠煙が、密かに賊たちの動きを鈍らせていたのだ。毒に侵され、武器を落として膝をつく賊たちを、官吏たちが次々と制圧していく。
もはや掃討は時間の問題だった。
淵明は捕らえた頭領を部下に引き渡し、低く命じる。
「――あとは任せる。制圧を完了させろ」
言い捨てると同時に、淵明の視線が横へと走る。そこには、恐怖のあまり腰を抜かして怯える賊の男が転がっていた。
逃げようとする男の首根っこを掴み上げ、淵明は冷たい氷のような瞳で見下ろした。
「……地下へ案内しろ」
返り血を浴びた冷たい声が響く。
怯える男に重い石扉の仕掛けをこじ開けさせ、淵明は、人質たちが捕らえられている地下牢へと足を踏み入れた。
地上からの光が遮断された、闇に閉ざされた牢獄。
湿った冷気のなかで、壁に掲げられた松明の火だけが不気味に揺れていた。




