第12話 闇底の灯火
地下牢の重い石扉がこじ開けられる音を聞きながら、素素はただ、眼の前にいる老人の呼吸が整うことだけを願っていた
◇
賊に捕らえられ、湿った闇に投げ込まれたとき、真っ先に鼻を突いたのは濃密な死の臭いだった。衰弱し、絶望に瞳を濁らせた人質たちが、あちこちで力なく呻いている。
(ひどい場所だわ。まともな怪我の治療すらされていない……。袖に隠した手持ちの薬だけで、どこまで足りるかしら)
だが、彼女は薬師としての誇りを、ひとかけらも捨ててはいなかった。
どのような逆境にあろうとも、その手に僅かでも癒しの術がある限り、ここで誰一人として見殺しにするわけにはいかない。
拉致される刹那、素素は無意識のうちにいくつかの生薬を懐へねじ込んでいた。また、肌身離さず持ち歩いている守り袋の中にも、緊急用の薬が数種忍ばせてある。
(今使えるのはこれだけ。……一粒だって無駄にはできないわ)
彼女はそれらを、かろうじて手に入れた泥水に近い濁った水で、慎重に煎じ出した。
「お嬢さん、何をしているんだい……?」
暗がりから、怯えた人質の一人が掠れた声で問いかけてくる。
「私は薬師です。皆さんの中で、怪我をされている方はこちらへ。できる限りのことですが、私が治療します」
凛とした声が響く。素素は自らの着物の裾を迷いなく引き裂くと、衣服の清潔な面が傷口に当たるよう細心の注意を払いながら、それを包帯代わりに用いた。
不衛生な地下牢に蔓延する感染症。そして、賊によって負わされた無惨な傷。
時間の感覚さえ失うような暗闇の中で、素素はただ、一人ひとりの冷え切った手を取り続けた。彼女自身も限界が近いはずなのに、その掌は温かい。
「……大丈夫ですよ。必ず、助けが来ます。だから、絶対に諦めてはいけません」
濁った闇の底で、彼女の声だけが優しく、けれど決して折れない光のように響いていた。
人々に寄り添い、励ます彼女の声は、時が経つにつれて次第に掠れていった。
積み重なっていく心身の疲労、そして地下牢の底に澱む冷たく湿った空気が、彼女の肺を容赦なく圧迫していく。埃とかびの臭いが気道を刺激するたび、伏せっていた持病が、静かに、しかし確実に牙を剥き始める。
喉の奥から、ヒュウ、と微かな乾いた音が漏れ始める。素素はそれを周囲に悟られぬよう、そっと胸元を押さえた。
ついに、最後の一包となった。
気道を広げ、激しい発作を鎮めるための生薬。それは本来、限界を迎えつつある彼女自身のために残しておくべき、唯一の命綱だった。
「じいさん! しっかりしろ、じいさん!」
「 おい!お嬢さん!助けてくれ……!」
闇の向こうで、人質たちが一人の老人を取り囲み、悲痛な声を上げる。
隣で横たわる老人は喉をヒューヒューと鳴らし、苦しげに己の胸を掻きむしっていた。今すぐ処置をしなければ、命がないのは明白だ。
その光景を見たとき、素素の心には一瞬の迷いすら生じることはなかった。
「これを……ゆっくり、口に含んでください。すぐに楽になりますから」
自らの指先の震えを悟られぬよう、素素は穏やかな声を絞り出し、老人の口に薬を含ませる。
やがて、喘いでいた老人の喉が安らかに上下し、呼吸が穏やかになっていくのを見届けてしばらく。
ついに、素素の肺が悲鳴を上げて拒絶を始めた。
ひゅう、と細い笛のような音が喉の奥から漏れ出す。どれほど懸命に顎を動かしても、必要な空気は一向に肺に届かない。
(大丈夫……落ち着いて……)
己を鼓舞する声すら、もはや内側でしか響かない。
酸素を求める心臓が耳元で狂ったように警鐘を鳴らし、視界の端からじわじわと漆黒の闇が侵食していく。冷え切った床へ、彼女の身体がゆっくりと傾いていく。
動かなくなった素素を、人質たちが狼狽しながら取り囲む。
背中を擦る誰かの手の温もりを感じるが、それさえも遠い世界の出来事のように思える。力が抜け、彼女は冷たい石畳の上に膝をついた。
(……ああ、ここまでなのね。謝殿、私は……)
遠のいていく意識の境界で、素素の脳裏に、様々な淵明の顔が浮かんでは消えていった。
捜査に没頭するときに見せる冷徹な眼差し。
思案に没頭するあまり、手元の茶杯を見失って空を掴み、気まずさから端正な顔をわずかに歪める、あの少し間の抜けた顔。
あるいは、大理寺承としての仮面を脱いだときに見せる、あの快活な笑顔。
――そして。
『素先生。君は私の、かけがえのない相棒だ』
最後に残ったのは、いつかのあの日、真っ直ぐに自分だけを見つめてくれた、彼の強い瞳だった。
素素の意識が深い闇へと沈みかけた、その時だった。
閉ざされた扉の向こうから、激しい怒号と、静寂を切り裂く鋭い金属音が響き渡る。
――直後、凄まじい音を立てて重い石扉が蹴破られた。
濁った地下牢に、松明の眩いほどの光が荒々しく差し込む。
「――素先生!!」
暗闇を裂いて響いたのは、彼女がこの世界で、もっとも信頼を寄せていた男の叫びだった。
必ず最善の手順を踏み、最短の時間で辿り着くと、信じて疑わなかった男の声。
(やっぱり、来てくれた……)
聞き慣れたはずの、けれど今までに聞いたこともないほどの焦りが混じったその響きが、奈落の底へ落ちようとしていた彼女の意識を、寸前のところで繋ぎ止める。
薄れゆく視界の端で、松明の光を背負った謝淵明の姿が揺れていた。
彼は戦場の鬼神のごとき形相で駆け寄り、素素の身体を抱き起こす。その力強い腕は、震える彼女の肩を強く、壊れ物を扱うように支えた。
素素は声にならない喘ぎを漏らしながら、彼を安心させるように、微かに微笑もうとした。
彼は知略の限りを尽くして最速でここへ辿り着いた。そして自分もまた、薬師としての職分を全うし、誰一人失うことなく彼を待ち続けたのだ。
二人の間には、もはや言葉など不要だった。
途切れゆく意識の淵で、彼女はただ、自身の冷え切った命を繋ぎ止めるような、彼の手の温もりを感じていた。




