第13話 理性を凌駕する熱
地下牢の奥底、松明の火が照らし出した凄惨な光景に、淵明の思考は一瞬にして凍りついた。
人質たちの中心で、素素が冷たい石畳に膝をつき、血の気の失せた顔で激しく喘いでいた。その肩は絶望的なほどに細く震えている。
「お役人様、お願いだ、その方を早く診てやってくれ! 私たちを助けるために薬を使い切り、ひどい発作に襲われているんだ!」
人々の命を繋ぎ止め、代償として独り死の淵を彷徨う彼女の姿。それを見た瞬間、淵明の中にあった「有能な協力者への敬意」は、激しい怒りと、胸を引き裂くような焦燥へと形を変え、爆発した。
淵明にとって、素素は常に揺るぎない知性を湛え、自らを支えてくれる聡明な女性であった。彼は、彼女を自分と同じように、いかなる困難にも折れぬ「強い人間」だと信じ切っていたのだ。
しかし、目の前で喘ぐ彼女はあまりに小さく、触れれば消えてしまいそうなほどに脆い。その圧倒的な現実が、淵明の胸を鋭く突き刺した。
彼女が持病を抱え、その知性の裏にこれほど繊細な「守られるべき一人の女性」としての姿を隠していたこと。そして、彼女の有能さに甘え、それを見落とし続けてきた自分。
(私は、彼女の何を見ていたのだ……)
己の慢心と無知が招いた状態に、彼は激しい衝撃を受けていた。
「素先生を地上へ運べ! 急げ!」
背後から周誠たちが駆け寄り、彼女を抱え上げようと手を伸ばす。その瞬間、淵明は自分でも驚くほどの、本能的なまでの拒絶感に襲われた。
「――触れるな!」
それは理性を凌駕した、原始的で剥き出しの庇護欲だった。誰にも触れさせたくない、自分以外にこの命を預けたくないという烈しい独占欲が、大理寺承としての冷静さを根こそぎ奪い去っていく。
淵明は、気圧された部下たちを厳しい眼差しで制した。そして、自らの腕で、細い彼女の体を、壊れ物を扱うような慎重さと、決して離さないという執着を込めて、力強く抱き上げた。
腕の中にある、燃えるような熱とか細い呼吸。その重みを肌で感じたとき、淵明は人生で初めて、底知れぬ恐怖に芯から震えた。
(この人を失うことは、国家の損失などという話ではない。私自身の、耐え難い苦痛になるのだ)
冷徹な法官としての仮面は、もはや跡形もなく崩れ去っていた。淵明は彼女を抱きしめたまま、かつて戦場で死線を幾度も潜り抜けた時以上に必死な面持ちで、地下牢の階段を駆け上がる。
腕の中の消え入りそうな温もりが、このまま失われてしまわぬように。この脆く、何よりも貴い存在を、二度と闇の手に放さぬように。
夜風が吹き抜ける地上へ向かって、彼は大理寺承という肩書きをかなぐり捨て、ただ一人の男として駆けたのである。
地下牢の外、冬の夜気は冷たく澄んでいたが、淵明の瞳に映る景色は、ただ一点、腕の中の消え入りそうな熱にのみ集約されていた。
「謝承、公的手続きを! 救護班の馬車が到着しております、人質たちはあちらへ……」
駆け寄る部下たちの進言を、淵明は鋭い一瞥ではね退けた。大理寺承として常に法と手順を最優先してきた男が、初めて明確に「公」を棄て、自身の職務を放棄した瞬間だった。
「黙れ。……これは大理寺の任務ではない。私の、私的な我儘だ」
低く、しかし逆らいがたい威圧感に満ちた声だった。
彼は腕の中の素素を壊さぬよう抱きしめ直すと、公務用の馬車には目もくれず、待機させていた家紋入りの私邸の馬車へと彼女を運び込む。
――彼は包囲の最中、最悪の事態を想定し、私邸からこの都で最も足の速い馬車をあらかじめ呼び寄せていたのだ。
「私の屋敷へ! 急げ!」
名門謝家の威光を象徴するその馬車が、主人の苛烈な合図とともに、都の夜闇を切り裂いて疾走し始めた。
役人たちは、唖然としてその光景を見送るしかなかった。
「謝承が抱えていた女性は、一体⋯⋯?」
未婚の男女が、ましてや名門謝家の次男が、素性の知れぬ女人を自邸へ連れ帰るなど、明日の朝には都中の醜聞になりかねない暴挙である。
だが、今の淵明にとって、家名の傷も立場の危うさも、羽虫の羽音ほどの雑音にすらならなかった。
素素を大理寺の救護施設へ預けるという選択肢は、彼の頭から完全に消え失せていた。
最高の医師と薬を揃えられる場所。そして何より、自分の目が届き、何者にも邪魔されぬ「自らの城」へと彼女を囲い込みたいという、剥き出しの執着が彼を突き動かしていた。
「急ぎ医師を呼べ! 蔵の生薬をすべて揃えろ!」
屋敷に到着した淵明の姿には、普段の「私生活には無頓着」な面影など微塵もなかった。
埃と返り血にまみれた官服を脱ぎ捨てる間も惜しみ、彼は素素を自身の寝所の、もっとも柔らかな寝台へと横たえる。かつて戦場で死にゆく戦友を看病した時ですら、これほどまでに全神経を研ぎ澄ませ、一分一秒を惜しんだことはなかった。
彼は自ら湯を沸かし、彼女の苦しげな呼吸の乱れ一つ一つに、刺すような鋭さで神経を尖らせる。
「……素先生、戻れ。勝手に消えることは、私が許さない」
寝台の傍らで彼女の手を握りしめるその横顔には、都を震えさせる切れ者の法官の影はない。そこにあるのは、ただ、二度とこの腕からこぼれ落ちることを許さぬ、一人の男の執念だけであった。
都の夜が深く更けていく中、謝家の屋敷の一角だけは、張り詰めた沈黙と、濃密な情愛の熱に包まれていた。




