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第14話 解き方の分からぬ迷宮

夜が白々と明け、素素スースーの呼吸はようやく穏やかな寝息へと変わった。


屋敷へ運び込んだ直後は激しい喘鳴ぜんめいが続き、その細い命の灯火は、いつ消えてもおかしくない絶体絶命の淵にあった。


胸の上下が一定の落ち着きを取り戻したのを見届けた瞬間、淵明ユェンミンの肩から猛烈な脱力感とともに、張り詰めていた緊張が抜けていった。


(穏やかな寝顔だ。一時はどうなることかと思ったが……峠は越えたな)


安堵の息を漏らし、彼は一晩中握りしめていた彼女の手を見つめる。

それから、名残惜しさを隠すようにそっと布団の中へ戻し、愛おしげに毛布をかけ直した。


自らの身なりは、昨夜の返り血と埃にまみれたままだ。

普段なら「これくらい構わん」と一蹴するところだが、今は彼女の眠る清浄な空気を汚すことすら厭わしく感じられた。

彼は大急ぎで身を清めて着替えを済ませると、寝台の上の素素を振り返り、後ろ髪を引かれる思いで大理寺の職務へと向かった。



大理寺の庁舎内には、早くも昨夜の謝承シェじょうの「異変」が噂となって広まっていた。官吏たちは、落ち着かぬ様子で彼の方を盗み見ては、密やかに目配せを交わしている。


だが、淵明にその雑音は一切届いていなかった。

彼はどこかうわの空で、書類を検分しながらも、思考の端には常に、白磁のように青ざめていた彼女の横顔が浮かんで離れない。


「謝承、先ほどの供述書ですが……」

「ああ、それなら……いや、待て。今の時間は? 屋敷へ使いを出したか?」

「は? いえ、まだですが……」


部下の困惑をよそに、淵明は日が傾き始めるや否や、山積みの案件を力業で片付け、大理寺を後にした。



その足が向かったのは、謝家の屋敷ではない。都で一番の品揃えを誇る大きな薬房であった。


「喘鳴を鎮める、最高級の薬草を。それから、喉の痛みを和らげる蜜菓子もだ」


かつては戦場で負った自身の傷すら「放っておけば治る」と、雑な手当てで済ませていた男である。

その男がいまや、薬種問屋の店先で薬草の産地や鮮度、果ては乾燥の具合までも細かく問い詰めている。


「……この川芎せんきゅうは少し色が悪いな。もっと質の良いものはないのか」


鋭い眼光で生薬を検分するその姿は、まるで大罪人の取り調べさながらであった。

すべては屋敷で眠る一人の女性のためらしいという噂に、店の主も「あの大理寺承が……」と目を丸くするばかりである。


買い込んだ薬の包みをしっかりと抱え、淵明は馬を急がせた。

胸の中にあるのは、事件を解決した達成感ではない。ただ、一刻も早くあの寝所へ戻り、彼女が目を開ける瞬間に立ち会いたいという、ひりつくような焦燥と渇望だった。


(……これは、一体何なのだ)


己の中に芽生えた、説明のつかない激しい執着。

「同格の協力者」という理屈では到底片付けられないその感情に、彼は困惑し、戸惑いながらも、夕闇に染まる都を全速力で駆け抜けていったのである。



夕刻の柔らかな光が差し込む頃、素素は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。

視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど豪華な刺繍が施された寝具と、上質な香木の香りだった。一瞬、ここは天界かと疑ったが、肺の奥まで清浄な空気が通るのを感じて、安堵が広がった。


(発作は……治まったのね)


部屋に飾られた一級の調度品。そして微かに漂う清廉な香は彼がまとうものと同じ。ここが他ならぬ、謝淵明の私邸の一室であることはすぐに察しがついた。


(謝殿の、お部屋……?)


自分が彼の特別な領域にいるのだと思うと、途端に気恥ずかしさが込み上げてくる。おまけに、彼に迷惑をかけてしまったのではないかという恐縮さで、胸がそわそわと落ち着かない。


けれどそれ以上に、目を閉じると思い出されるのは、あの暗闇を割って入ってきた彼の姿だった。

必ず最短の時間で辿り着くと信じていた、あの男の、今までに聞いたこともないほど激しい叫び声。


(謝殿はやっぱり、私の思っていた通りの御方だわ……。あの方を信じて、本当に良かった)


命を救われたことへの、底知れない感謝。そして「相棒」という境界線を、あの夜、彼は確かに踏み越えて迎えに来てくれた。その事実が、まだ恋ともつかない甘やかな余韻となって、素素の胸の奥を優しく締め付けた。



彼女は薬師のさがで、まずは自分の手首に指を当てて脈を確かめた。次いで、寝台から身を起こし、体の動きを確認しようとする。

――その時だった。


「――気がついたか」


不意に部屋の扉が開いた。

そこに立っていたのは、大理寺の厳格な官服を脱ぎ、少しだけくつろいだ私服姿の謝淵明だった。

いつも髪を完璧に結い上げている彼が、今はわずかに髪をほどき、どこか柔らかな雰囲気をまとっている。


素素はハッとして顔を上げたが、すぐに自分の状態に気づき、息を呑んだ。

激しい発作の手当てのためにくつろげられたのか、衣の合わせが緩み、白い鎖骨から胸元にかけてが大胆に露わになっていたのだ。


「あっ……!」


顔を火が出るほど真っ赤に染め、素素は勢いよく布団を引き寄せて胸元を隠した。

それと同時に、淵明もまた、不自然なほど真顔のまま彫像のようにその場に固まる。

――いつもなら一瞬で周囲の状況を把握する男の鋭い視線が、完全に泳いでいた。


「あ、いや、私は……その、容体を確認しようと……」 


都の悪党どもを震え上がらせる名判官の面影は、そこには微塵みじんもなかった。

淵明は表情を変えぬまま、みみたぶまで真っ赤にし、視線を泳がせる。そして手元にあった薬の包みを、まるで投げ出すように近くの卓へ置いた。


「これ……! 都で一番の薬房から買い付けさせた薬だ。南方の名産に劣らぬ貴重な生薬らしい。後で医師を呼んで煎じさせよう!」


一気にまくし立てた彼の声は、動揺のあまり少し裏返っている。

素素が驚いて固まっている間に、淵明は「では、失礼する!」とだけ言い捨て、逃げるような足取りで部屋を飛び出していった。

バタン、と勢いよく扉が閉まり、静まり返った室内で、素素はポツンと取り残される。


しばらく呆然としていた彼女だったが、ふと鼻をくすぐる匂いに気づいた。

卓の上に置かれた包みからは、確かに非常に希少で高価な生薬の、どこか清涼な香りが漂っていた。



部屋を飛び出した淵明は、熱を帯びた顔を冷ますように、屋敷の裏手にある修練場へと向かった。


「……雑念だ。邪念を払え、謝淵明」


自分に言い聞かせるように、彼は壁に掛けられた愛槍をひったくる。しなりを見せる長槍を構え、深く息を吐き、一気に突き出した。空気を切り裂く鋭い音が響く。本来ならば、この一撃で心は静まり、ただ武の境地へと沈んでいくはずだった。


だが、槍を振るえば振るうほど、網膜には先ほどの光景が鮮烈に焼き付いて離れない。

白磁のように滑らかな首筋、朱に染まった頬。そして、緩んだ衣の隙間から覗いた、新雪のような柔らかな胸元の輪郭。 


「くっ……!」


突きの軌道が、わずかに揺らぐ。

都の闇を暴き、冷徹に法を司るべき大理寺承の脳裏が、一人の女人の、それも無防備な肉体の残像に占拠されていた。

彼は生まれて初めて、己の「観察眼」の鋭さを呪った。一度見てしまった細部の質感までもが、執拗に記憶から溢れ出してくる。


(私は一体、何を考えている……。彼女は恩人であり、敬意を払うべき唯一無二の協力者ではないか)


自分に呆れ、再び槍を振るう。しかし、その動きはかつての武将としての剛健さを欠き、どこか焦りに満ちていた。

鍛錬によって体は熱を帯びているはずなのに、胸の奥で疼くのは、運動による熱さとは異質な、もっと甘やかで、それでいて身を焼くような焦燥感だ。


結局、一刻ほど打ち込んだものの、集中力は底を突いていた。

淵明は槍を地面に突き立て、荒い息を吐きながら夜空を見上げた。


「……これでは、使い物にならない」


彼にはまだ自覚がない。

その「集中できない」原因が、知性や能力に対する敬意を越え、一人の男として彼女を求めている「恋」という名の情熱であることに。


月明かりの下、稀代の英傑は、ただ独り、解き方の分からぬ感情の迷宮に立ち尽くしていた。


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