第15話 過保護な報酬
妖異の仕業と噂された「神隠し」の正体は、冷酷極まりない人間の「金儲け」だった。
この国の高度な文化や技術――語学、芸術、医術といった知の結晶は、周辺の異国にとって喉から手が出るほど欲しい至宝であった。
都の闇組織は異国の王族から巨額の報酬を請け負い、「当代一の絵師」や「あらゆる言語を操る天才」といった、まさに国家の財産とも言える傑物たちを拉致し、西域へと密輸しようとしていたのだ。
その神隠しの真相とともに語られたのは、千鴉園での騒動の一件である。
「謝家の次男坊が、人質の女を自邸に囲い込んだらしい」
そんな刺激的な噂は、またたく間に都中を駆け巡った。
しかし、当の淵明本人は、追求されても「治療に最適な場所を選んだまでだ」とあまりに淡々と、あっけらかんとしている。そのため人々の期待した色恋の憶測は行き場を失った。
結局、騒ぎが収まるまでに、そう長くはかからなかったのである。
◇
しかし、先の一件の噂は思わぬ形で再燃した。
あの夜、素素が手持ちの最後の薬を惜しみなく使って救った老人――彼こそは、時の皇帝から絶大な寵愛を受ける高名な絵師であった。
後日、淵明の屋敷に、彼から素素へ感謝の意を込めた一幅の絵が届けられる。そこに描かれていたのは、命の灯火を瑞々しく蘇らせた、息をのむほど美しい奇跡の光景だった。
その絵を前にした淵明の胸中には、複雑な影が落ちていた。
絶望的な状況のなか、毅然と立ち向かい、多くの人質を救い出した名もなき薬師の女人。その奇跡の手腕が、高名な絵師の筆によって都中へ知れ渡ることになってしまった。
しかも性質の悪いことに、その女人を、名門・謝家の次男が自らの私邸へ連れ帰って匿っているという。
これだけの条件が揃えば、都の好事家たちが放っておくはずがない。
(なぜ、あの時の私はあんなにも短慮だったのか)
淵明は、己の内にあった衝動のまま、公然と素素を屋敷へ連れ帰ってしまった己の振る舞いを深く反省していた。大理寺承としての冷静さを完全に失っていた事実が、今更ながらに苦々しい。
(これほどの才があればこそ、また悍ましい陰謀や、闇の利権を狙う賊の手が彼女を脅かすのではないか……)
素素の身を案じるあまり、彼は彼女が薬師を続けることそのものに、強い不安を抱き始めていた。
これ以上彼女を危険に晒したくない。その手を引いて、自分の庇護下に囲い込んでしまいたいという独占欲さえ首をもたげる。
しかし、届けられた絵を愛おしそうに見つめる素素の瞳には、一切の迷いがなかった。患者を救うためなら命さえ懸ける、一人の薬師としての、揺るぎなき矜持。
――その横顔を前に、淵明はついに言葉を飲み込んだ。
彼女の誇りを、自分の我儘で汚してはならない。淵明はただ静かに己の胸を焦がしながら、彼女の意思をどこまでも尊重し、その未来に口出しをしないことを心に誓った。
◇
噂の再燃を受け、淵明はすぐさま謝家の現当主である実兄の元へと向かった。秘密裏に、謝家の護衛を素素につけてもらうためだ。
「彼女はかつて江南の秘湯で、私の命を救ってくれた恩人です。それに、あの卓越した医術は、万一のことがあれば国家の損失となりかねません」
淡々と並べ立てる弟の言い分を、兄はふっと目を細めて受け止めた。
「なるほど。お前の恩人ならば謝家としても借りを返さねばな。それに、皇帝の寵愛を受ける絵師を救った薬師だ。大理寺の毒物事件にも関わるあほどの才媛を謝家の庇護下に置くことは、我が謝家の利にも叶う。表向きは当主の命として、手練れの者を彼女につけよう」
公私混同のない完璧な采配。だが、兄は去り際の弟の背に、ぽつりと直球の質問を投げかけた。
「――時に淵明。お前、その女人に特別な想いでも抱いているのか?」
淵明は一瞬の迷いもなく、全く表情を変えずに応じた。
「いいえ。ただの仕事の相棒です」
ピシャリと言い捨てて部屋を出ていく弟の後ろ姿を、兄は愉快そうに見送った。
ああまで完璧に、動揺すら見せずに否定してみせることこそが、本当の気持ちの裏返しだ。何年あいつの兄をやっていると思っている。
弟の気配が完全に消えた後、兄は影のように付き従う腹心の部下へ、愉しげな声をかけた。
「……全く女っ気のなかったあの淵明が、あそこまで執着する女人か。ただの恩人にしては過保護が過ぎる。表向きは当主の体面を守りつつ――その素素とやら、少し裏を探っておいてくれ。弟を狂わせる器かどうか、見極めなくてはな」
◇
素素の病が落ち着き、都にはようやく平穏な日常が戻ってきた。あれほど騒がしかった噂も、時とともにすっかり鳴りを潜めている。
しかし、以前と明確に違うことが一つだけあった。
大理寺の公務で多忙を極めるはずの謝淵明が、どういうわけか、下町にある素素の薬房へ頻繁にふらりと顔を出すようになったことだ。
――それも、まるでそれが当然の職務であるかのような、極めて大真面目な顔をして。
「たまたま手に入ってね。さほど珍しいものでもないが」
淵明はそう言って、卓の上に無造作に小包を置いた。しかし、中身は決まって、都の市場でもなかなかお目にかかれない、質のいい高価な生薬ばかりだ。
包みを開いた素素は、その芳醇な香りに驚き、「私にはもったいなすぎます」と恐縮して首を振る。
「気にするな。素先生のおかげで、先の事件の人質たちは皆、速やかに回復したのだ。これはその正当な報酬だと思えばいい」
どこまでも事務的な態度を装う淵明の言葉に、素素はほっと安堵の笑みを浮かべた。
「良かったです。私はただ、あの場でできることをしたまでですから」
誇るでもなく、ただ患者の無事を純粋に喜ぶ。そんな彼女の柔らかな微笑みを前にした瞬間、淵明は不意にいつもの鉄面皮を崩し、その瞳に深い慈しみをにじませて彼女を見つめた。
「……ところで、あの地下牢でどうやって薬を用意したのだ。あそこには何もなかったはずだが」
淵明はふと、ずっと胸に引っかかっていた疑問を口にした。光も差さない劣悪な地下牢で、彼女は確かに奇跡を起こしたのだ。
「捕らえられる刹那、咄嗟にいくつかの生薬を懐へねじ込んだのです。あとは……すべて、この守り袋の中に」
素素は胸元から、大切に扱われてきたことが窺える、色褪せた古い守り袋を取り出した。
「これは、私が幼い時分からずっと身に着けていたものだそうです。師匠が、何があってもこれだけは肌身離すなと」
ぽつりと語る彼女の声は、どこか遠い記憶を辿るようだった。
――その時、淵明の動きが止まる。
彼の視線が、その古びた布地に細かく縫い取られた紋様へと静かに注がれた。
「……この印は」
「何か、珍しいものなのですか?」
不思議そうに小首をかしげる素素に対し、淵明は一瞬だけ鋭く目を細めた。だが、すぐにいつもの冷静な面持ちを取り繕い、軽く手を振ってみせる。
「いや……特にそういうわけではない。少し変わった文様だと思っただけだ。気にしないでくれ」
ちょうどそこへ、彼の部下が捜査の進展を知らせに駆け寄ってきた。
密やかに報告を端的に受けた淵明は、「分かった。私もすぐに現場に向かう」と短く応じる。大理寺承としての鋭利な顔が、一瞬で彼の輪郭を取り戻した。
薬房を出ようと歩き出した淵明だったが、ふと、思い出したように足を止める。
振り返り、ただ静かに素素を見つめると、彼は少しぶっきらぼうに言葉を紡いだ。
「素先生、最近は朝晩の冷え込みが厳しい。……ぶり返さぬよう、身体に気をつけてくれ」
それだけを言い残すと、彼は風のように忙しなく去っていった。
「謝殿は、本当にお優しい方だわ」
一人残された室内で、素素はぽつりと呟いた。
卓の上の小包をそっと両手で抱え直す。先ほどまで彼がいた場所から漂う、微かな名香の残香に、素素はそっと目を細めた。




