第16話 知性の呪いと、熱き掌
冷たい雨が、都の石畳を容赦なく叩きつける夜だった。
薬房の奥、素素は調合台の前で立ち尽くしていた。
先ほど運び込まれた老人の容体は、もはや薬の効く段階を過ぎている。素素の鋭い知見は、その残酷な結末を秒単位で弾き出していた。
さらに彼女を追い詰めたのは、その病因だった。
家族が長年、老人の体を想って煎じ続けていた安価な野草茶。それが特定の持病と合わさり、緩やかな毒となって五臓を蝕んでいたのだ。
(知らなければ、ただの寿命として看取れたはずなのに。……私がそれを告げれば、彼らは愛ゆえに家族を殺したという罪悪感に、一生縛られることになる)
知識は時に、救いではなく呪いとなる。素素は自らの震える両手を強く握りしめた。
「……素先生。どうして震えている」
不意に背後から響いたのは、濡れた衣を纏った淵明の声だった。
驚き、振り返る素素の目に、雨に濡れたままの彼の張り詰めた顔が映る。
「謝殿……。公務の帰りですか? ですが、今は……」
「君のような名薬師が、調合以外の理由で手を震わせるのは、知識が残酷な答えを出した時ではないか」
淵明は彼女の言葉を遮り、一歩、歩み寄った。その瞳は、彼女が心の奥底に隠していた「知性の孤独」を、いとも容易く射抜いていた。
素素はたまらず、堰を切ったように胸の内を吐露した。
自分の知識が、助からぬ命の最期を冷徹に予見してしまうこと。そして、無知ゆえの慈悲が引き起こした悲劇を暴いてしまうことへの恐怖。
「……分かってしまうのです。私のこの『目』は、残酷な真実を暴くばかりで、誰の心も救えません。師匠のように、もっと心を突き放せればいいのに」
声を震わせる彼女に対し、その震える手を、自身の大きく熱い手で包み込んだ。
「私も同じだ」
低い、しかし確かな響きを持った声だった。
「この目は、一族の絆や友情の裏に隠された醜い殺意を暴き出す。法を司ることは、時に希望を断ち切ることでもある。真実を追求すればするほど、守りたかったはずの誰かの心を壊すことになる」
淵明は、逃げようとする彼女の視線を、真っ直ぐに繋ぎ止めた。
「だが、君がその『残酷な答え』を知っているからこそ、せめて最期の時間を痛みから救い、家族に別れの機会を与えられるのではないか。君が抱える絶望の半分は、私が背負おう。君の知性は、私が肯定する。だから、一人で震えるな」
その言葉は、どんな名薬よりも深く、素素の凍てついた心を溶かしていった。
これまで「何でも知っている完璧な薬師」として頼られ、孤独に正解を出し続けてきた彼女にとって、それは初めて自分の魂の重荷を分かち合ってくれた瞬間だった。
(ああ、この人は。……私の知っている痛みを、同じように抱えて生きているのだわ)
熱を帯びた彼の手の温もりが、肌を通じて心臓へと伝わっていく。
◇
ある晴れた日の昼下がり。
「謝承! 急ぎ本庁へ駆けつけよとの命令です!」
静かな薬房に、部下の切迫した声が響いた。大理寺に緊急の非常招集がかかったのだ。
卓の上で事件の資料を確認していた淵明は、「急ぐので失礼する」と即座に立ち上がった。
だが、その胸中に過った一瞬の焦りのせいか、あろうことか机の角に官服の飾り帯を引っ掛けてしまう。
「……む?」
淵明が強引に引き剥がそうとした拍子に、帯の結び目は複雑に絡まり、あろうことか官服の襟元が大きく歪んでしまった。
彼は深く眉を寄せ、長い指先で結び目を弄り始める。しかし、重い剣や槍を完璧に操るための彼の大きな手は、こうした繊細な紐解き作業には驚くほど不向きであった。
「謝殿、落ち着いてください。余計に固まっていますよ」
見かねた素素が苦笑しながら歩み寄ると、淵明は眉間に深い皺を寄せたまま、本気で憤慨した声を上げた。
「どうしてこれほど論理的でない絡まり方をするんだ。紐の構造上、あり得ないだろう」
都の難事件をいくつも解決してきた大理寺承が、たった一本の飾り帯を、まるで凶悪犯を前にしたかのような厳しい目つきで睨みつけている。その指先は、焦りのせいで余計に複雑な結び目を生み出していた。
「論理ではなく、ただの不器用です」
素素は呆れ混じりに言いながら、彼の胸元に手を伸ばした。
――途端、世界がふっと狭くなる。
触れ合いそうなほどの至近距離。素素の細い指先が官服の襟元に触れ、彼女の柔らかな髪の香りが、淵明の鼻腔をかすめた。
淵明の身体が微かに緊張に強張る。互いの吐息が届くほどの至近距離で、そこにある時間だけが、奇妙に速度を落としたようだった。
彼女の細く柔らかな指先が、複雑に絡まった絹の帯を一本ずつ丁寧に解いていく。
その間、大理寺の冷徹な判官は、耳を真っ赤に染めて石のように固まったまま、ただじっと、己の胸元に触れる少女の頭頂を見下ろしていた。
「……君は、器用だな」
淵明が呟くと、素素はクスリと笑った。
「謝殿が、ご自身の身なりに興味が無さすぎるのです。大理寺承ともあろうお方が、襟を歪ませたまま表を歩くなど、配下の皆さんが泣いてしまいますよ」
ようやく結び目が解け、素素は手際よく帯を締め直した。仕上げに、歪んでいた襟元をキュッと整え、仕上げにポン、と彼の胸を軽く叩いてみせる。
「はい。これで『峻厳な大理寺承』の出来上がりです。行ってらっしゃいませ、謝殿」
「……助かった。どうも、この手の紐類は苦手でな」
淵明は照れたように指先で鼻先を掻くと、今度こそ颯爽と部屋を出て行った。
激しい雨の降る都の闇へと消えていく、その広い背中を見送りながら――素素はふと、自分の指先に残る上質な絹帯の質感と彼の熱を確かめるように、そっと小さな拳を握りしめた。
(あんなに難しい事件の謎は鮮やかに解いてみせるのに、自分の服の紐一本すら解けないなんて)
外では誰の手も借りず、ただ一人で毅然と正義を執行する男。
そんな彼が、自分の前でだけは「手のかかる子供」のような無防備な顔を見せる。
その不条理な二面性を思い返し、素素は深く、溜息をついた。
――胸の奥が、まるで熱い薬湯を飲み干した時のように、じわりと切なく疼いていた。




