第17話 自覚なき猟犬
初夏の風が吹き抜ける薬房の軒先。
素素と周誠は、納品されたばかりの生薬の束を前に、和やかに言葉を交わしていた。
「……なるほど。この葉を乾燥させてから煎じることで、毒性を中和するのですね。素先生の説明はいつも明快で助かります」
「周殿は飲み込みが早くていらっしゃるから。謝殿にも、少しはその根気強さを見習っていただきたいくらいです」
淵明は一を聞いて十を知るが、時折説明を最後まで聞かずに突っ走る節があった。
淵明のその様子を思い出して、素素がふっと、年相応の柔らかな微笑みを浮かべる。その愛らしい横顔に、周誠も思わず目尻を下げた。
「はは、あいつに根気を求めるのは酷というものです。ですが、素先生のような方にそう言っていただけると、あいつも少しは……」
二人の間に穏やかな空気が流れた、その時だった。
「――周誠。いつまでそうして、無駄口を叩いている」
背後から、低い声が響いた。
振り返れば、そこには眉間に深い皺を刻んだ淵明が立っている。その瞳は、いつになく鋭く、目の前の「和やかな光景」を射抜いていた。
「あ、淵明。戻ったのか。いや、素先生に薬草の扱いを教わっていてな、非常に有意義な……」
「有意義だと? お前の役割は現場の警備と、証拠の保全だ。薬草の講釈に現を抜かしている暇があるなら、大理寺に戻って報告書の一枚でも書け」
淵明は一歩、二人の間に割り込むように踏み込むと、素素を背に隠すようにして立った。その動作はあまりに自然で、かつ強引だ。
「え、いや……まだ任務の途中だし、報告書は明日でも……」
「今日やれることを明日に回すな。……それとも何か? お前は、素先生の貴重な時間を、自分のために奪っているという自覚がないのか」
淵明の言葉は、正論の衣を纏ってはいるものの、隠しきれない棘が混ざっている。
周誠は、淵明のその尋常ならざる「圧」を間近に感じて、思わず目を見開いた。
(……待て。こいつ、もしかして……)
周誠は、淵明の顔をまじまじと見つめた。
淵明本人は、あくまで「公務の効率」と「素素への配慮」を主張している顔をしている。
だが、その瞳の奥にあるのは、獲物を奪われまいとする猟犬のような、剥き出しの独占欲だ。
「……淵明。お前、まさか素先生と話している俺に、腹を立てているのか?」
「……はあ? 何を馬鹿なことを。私がなぜ、そんな瑣末なことで腹を立てる。私はただ、大理寺の仕事が滞ることを危惧しているだけだ」
淵明はフンと鼻を鳴らし、今度は素素の方を振り返った。その際、彼は無意識に、素素の背を少しだけ強めに押した。
「素先生。この男に構って、大切な知恵を安売りする必要はない。……さあ、奥へ。捜査をしていていくつか君に聞きたいことがあるんだ」
「え……? でも、周殿とはまだお話が……」
「こちらの方が急ぎだ。行くぞ」
有無を言わせぬ強引さで、素素を薬房の奥へと促す――否、ほとんど連れ去っていく淵明。
戸口に取り残された周誠は、二人の後ろ姿を見送りながら、深いため息をついた。
(……やれやれ。自分の感情すら「雑」に扱って気づかないくせに、態度は誰よりも分かりやすい。こりゃあ、周りだけが苦労するぞ)
奥の廊下からは、二人の押し問答が聞こえてくる。
「……謝殿!背を押さないでください、歩きにくいです!」
「ん? ああ、すまない。だが、急ぐと言っただろう。ほら、足元に気をつけろ」
素素の抗議すら、どこか満足げに聞き流す淵明。
自覚なき恋心が引き起こす、あまりに無骨な嫉妬。
その火種に唯一気づいている周誠は、「これだからお堅い判官様は……」と独りごち、再びやれやれと頭を振るのだった。
◇
素素は、淵明が「たまたま手に入った」と言って持ってくる上質な生薬を、高価な薬を買えない困窮した患者たちのために処方し、大切に役立てていた。
ある日のこと。ちょうどその様子を、店を訪れた淵明が目撃する。
素素が優しく声をかけながら、彼から贈られたはずの極上の生薬を、貧しい老人に手渡している。老人が涙を流して何度も頭を下げ、感謝しながら去っていった後――淵明はいつもの端正な顔を珍しく複雑に歪め、ぽつりと呟いた。
「……それは、素先生の病に効くものではなかったのか?」
「え……?」
呆気に取られて聞き返す素素に対し、淵明は己の失言を悔いるように顎をさすった。
「……いや、いい。忘れてくれ。君がそうしたいのなら、私に口挟む権利はない。ただ、君が使うためのものだとばかり思っていただけだ」
気まずげに視線を逸らす横顔を見て、素素はハッとした。
彼はいつも「たまたま手に入った」と言って、小包を置いていった。けれど、そんなはずはないのだ。
その一途で不器用な献身に気づいた瞬間、素素の胸の奥が、じんわりと温かくなった。
「……謝殿。ありがとうございます。次は、私自身のためにも少し残しておくようにしますね」
素素がふわりと微笑むと、淵明は「ああ、そうしてくれ」とさらに短く答え、赤くなった耳を隠すように、足早に店を後にした。
数日後のこと。素素は彼の想いに応えるべく、贈られた薬材を大切に使い、乾燥から喉を潤す効果のある「白きくらげの氷砂糖煮」を作った。
ちょうど味を見ようと木匙を持ち上げた、まさにその時である。
「やあ、素先生。ずいぶんと甘くいい匂いがするな」
いつものように、ふらりと戸口に淵明が現れた。
素素はパッと顔を輝かせると、はにかみながら彼を迎え入れる。
「謝殿、ちょうど良いところに。いただいた材料で甘味を仕込んでみたのです」
素素は、自分の体をそこまで深く案じてくれていた彼への、胸が熱くなるような気恥ずかしさを隠すように、少しだけ上目遣いで悪戯っぽく微笑んでみせた。
「毒見……いえ、味見をなさいますか?」
差し出した木匙の先を見つめながら、素素は内心で彼の反応を予測する。
いかに私生活が無頓着であっても、そこは名門・謝家の血を引く高潔な男だ。きっと「はしたない」と呆れて身を引くか、あるいはどう扱ってよいか分からぬように困った顔で苦笑するに違いない――。
そう予期して、呆れ顔の彼に先んじるように、さっさと掲げた匙を自らの口に含もうとする。
その、刹那だった。
「――いただくよ」
低い声音が、すぐ耳元で鼓膜を震わせた。
驚いて顔を上げた時には、すでに遅い。視界のすべてを塞ぐほどの至近距離に、あの端正な男の顔があった。
「あ……っ」
拒む隙も、声を出す暇すらもなかった。
淵明は、素素が匙を持っている手首を、ごく自然に、けれど拒絶を許さぬ強さで引き寄せると、そのまま迷うことなく「ぱくり」と口に含んだのである。
「……うまいな。疲れがとれる」
満足げに咀嚼しながら、彼は「あ、ついていたか」と低く呟いた。
――無造作に指先で自らの口元を拭う。
そして、その指先をぺろりと舐めとった。
ほんの一瞬だけ覗いた、湿った赤い舌の生々しさが、やけに鮮烈に素素の目に焼き付く。
峻厳な大理寺承としての威厳はどこへやら。そこにいるのは、完全に気を許した、あまりに無防備で野生的な一人の「男」であった。
至近距離でその姿を突きつけられ、素素は石のように固まってしまう。心臓の音が、耳元で鐘のようにうるさく鳴り響いた。
「謝承! 緊急の用件です!」
そこへ、部下が血相を変えて駆け込んでくる。
「そうか、すぐ行く」
淵明は瞬時に冷徹な大理寺承の顔に戻ると、風のように去っていった。
薬房には再び静けさが戻る。だが――
(……え、どうして? なぜ、こんなに動悸が激しいの?)
素素は真っ赤な顔で、ただ一人、その場にへたり込むことしかできなかった。先ほどまで淵明に掴まれていた手首が熱い。
それは、どんな名薬をもってしても鎮めることのできない、甘く激しい動悸であった。




