第18話 見通せぬ裏側
先日の一件以来、素素の態度は目に見えて変わってしまった。
大理寺の公務で淵明が薬房に姿を見せるたび、彼女はあからさまに挙動不審になるのだ。
ほんの一瞬でも目が合えば、弾かれたように飛び上がって視線を逸らし、何かと理由をつけては逃げるようにその場を離れてしまう。
薬の調合中すら集中を欠き、普段の彼女なら絶対にあり得ないような初歩的な計量ミスを犯しては、一人で顔を真っ赤にして調合台に沈み込む日々が続いていた。
――そして。そのあからさまな「異変」に、鋭すぎる観察眼を持つ謝淵明が、気づかないはずはなかった。
(……やはり、あの時の行儀の悪さのせいか)
淵明は、表面上はいつもの泰然自若を装いながらも、内心では激しい後悔の念に苛まれていた。
年若い女性に対して、あのような思慮に欠ける振る舞いをしたのだ。嫌われて当然の報いだろう、と。
――だが、弁明の余地があるとするならば。
いつもは聡明な素素が見せた、珍しく悪戯っぽい表情や、あの弾むような言い方が、あまりにも可愛らしすぎたのだ。
ゆえに、都の法を司る大理寺承ともあろう者が、あろうことかついつい子供のようにやり返したくなってしまったのである。
そんな折、公務の最中に肩口を斬られた淵明は、他を顧みず真っ直ぐに素素の元へと足を向けた。
部下に治療を任せることもできたはずだった。だが彼は、彼女に会うための正当な口実を、傷口の痛み以上に激しく求めていたのだ。
「……秘湯で最初に出会った時も、素先生にこの肩を治療してもらったな」
奥の診察室で、淵明は努めて平静な声を絞り出し、自ら衣を緩めた。露わになる、頑強に鍛え上げられた肩から、逞しい胸元。
かつて、優しく香油を塗り込んでくれた彼女の小さな手の温もりが、今になって鮮烈に脳裏に蘇る。傷の痛みとは全く異なる、熱く切ない衝動が、彼の胸の奥を微かに疼かせていた。
だが、それに応じる素素の態度は、かつてないほどに冷ややか――否、そう取り繕うのが限界なほどに切羽詰まっていた。
「……っ、そんなに急に脱がないでください! 風邪を引いてしまいます!」
ほとんど刺すような語気だった。
素素は、耳の裏まで真っ赤に染まった顔で視線を激しく泳がせながら、ものすごい速さで傷口に薬を塗っていく。だが、その指先はいつもの平静さの欠片もなく震えていた。
淵明は、己の肌の上で激しく震える、その細い指先をじっと見つめていた。
彼女がなぜ怒っているのか。なぜ、これほどまでに動揺しているのか。
どのような難事件の糸口をも掴んできた彼であっても、今の彼女の気持ちだけは、どうしても掴めなかった。ただ、かつて対等に言葉を交わし、魂を通わせた「同格者」としての信頼が、足元から音を立てて崩れていくような――底寒い孤独感だけが、彼を支配していた。
(嫌悪……なのか? 私に触れることすら、今の君には、これほどまでに苦痛なのか)
都の暗部を暴き、あらゆる欺瞞を見抜いてきたその鋭利な眼も。
今、目の前で耳まで赤くして震えている少女の、激しい「拒絶」に似た態度の裏側にある――あまりにも甘く、初々しい本当の理由だけは、どうしても見通すことができなかった。
(……嫌われてしまったのか)
都を震撼させる凶悪犯の刃を前にしても、眉一つ動かさない大理寺承。それが今、かつてないほどの鋭い胸の痛みに苛まれていた。
朝廷の政敵から浴びせられる執拗な批判など、どこ吹く風と受け流してきた強靭な胆力が――たった一人の少女が向ける「よそよそしさ」という無形の刃を前に、脆くも崩れ去ろうとしている。
そんなある日のこと。淵明は捜査の合間に、都の雑踏の中で、にわかには信じがたい光景を目にした。
素素が、彼女と同じくらいの年格好をした若い武官と向かい合い、楽しげに談笑していたのだ。その口元には、淵明が最近とんと見ていない、柔らかく自然な微笑みが浮かんでいる。
(私の前では笑うどころか、あんなに強張った表情しか見せないというのに……)
心臓の奥を冷たい刃で撫でられたような、どろりとした暗い嫉妬と絶望が、一時に彼を襲った。あの、魂の領域で繋がっていると信じていた「唯一の同格者」の隣にいるのが、自分ではないという容赦のない事実。
大理寺承としての自尊心など、もはやどこにも残されていなかった。胸を支配しているのは、ただ一人の男としての、惨めなまでの敗北感だけだ。
――そこに至って、彼はようやく、己の真の気持ちに気づく。
(……ああ、そうか。私は彼女を「同格」と尊ぶ綺麗事の裏で。一人の女性として、狂おしいほどに求めていたのだ)
突きつけられた真実は、鋭い刃となって彼の胸を深く貫いた。
だが、気づいた時にはもう、すべてが手遅れだったのだ。彼女は自分以外の男にあの柔らかな微笑みを向け、自分には、怯えたような拒絶の目を向ける。
「……これ以上、嫌われるわけにはいかないな」
ぽつりと漏れた独白は虚しく溶けて消えた。
彼女に心底拒絶されることは、この命を落とすことよりも、彼にとっては遥かに恐ろしいのだ。これ以上、己の身勝手な存在が彼女の重荷になり、あの美しい笑顔を曇らせることだけは、到底耐え難い。
そう結論づけた淵明は、あの日以来、あんなに頻繁に通い詰めていた薬房から、あからさまに足を遠ざけるようになった。
捜査に必要な連絡や用件はすべて部下に言い渡し、自らは大理寺の奥深く、うず高く積まれた書類の山へと逃げ込む。
素素が薬師として、己が法官として――かつて互いの知性を認め合った「相棒」という完璧な距離に戻るためには、このまま彼女の視界から消え去るのが最善なのだと、冷え切った己の心に言い聞かせるように。
陽光が眩しさを増し、夏の気配が満ちていく都の中で。
謝淵明の胸の奥だけは、光の届かぬ冬の底のように、ただ冷え冷えと凍てついていた。
◇
あの日、淵明が素素の手首を掴んで匙を奪い、その唇を湿らせた――あの鮮烈な瞬間から、彼女の中の「薬師としての平穏」は音を立てて崩れ去ってしまった。
淵明が大理寺承として薬房に現れるたび、素素の心臓は激しい動悸に襲われる。彼とほんの一瞬でも目が合えば、まるで熱湯に触れたかのように飛び上がり、無様に視線を逸らしてしまうのだ。
以前のように、事件の深淵について対等に語り合うことなど、今の彼女には到底できない。何かと言い訳を作っては、逃げるように奥の調合室へと引っ込む始末だった。
(薬師として、全くだめだわ……)
一人、誰もいない調合台の前で、素素は深いため息をつく。
あんなに正確無比だった指先が、ただ彼の姿を脳裏に思い浮かべるだけで、見苦しく震えてしまう。
(また、計量を間違えてしまった⋯⋯)
貴重な生薬を台無しにし、片付けようと覗き込んだ水面に、耳まで真っ赤に染まった己の顔が映る。素素はそのあまりの情けなさに、ただただ一人で深く沈み込む。そんな日々を過ごしていた。
そんな素素の不甲斐なさを、あの鋭い観察眼を持つ大理寺承が見逃すはずがない。
ある日を境に、淵明はばったりと薬房に姿を見せなくなった。
以前は「たまたま通りかかった」と子供でも信じないような無理のある口実を作っては顔を出してくれたというのに。今は事務的な連絡を携えた大理寺の配下が訪れるだけだ。
「⋯⋯愛想をつかされてしまったのかしら」
ぽつりと呟いた疑問の答えは、あまりにも明白だった。当然だ、と自嘲する。
あんなに失礼な拒絶の態度を取り、薬師としても使い物にならない姿ばかりを見せていたのだから。見限られても文句は言えない。
「素先生!」と、あの快活で真っ直ぐな笑顔で信頼を向けてくれた彼の姿が、今は遠い幻のようだった。
自分を唯一無二の「相棒」として認め、対等な光を向けてくれた淵明。しかし、自分は彼の期待を裏切り、失望させてしまったのだ。
彼が来なくなった薬房は、夏の、肌にまとわりつくような蒸し暑さとは裏腹に、ひどく冷え切っているように感じられた。
薬箱を開けるたび、かつて彼が「たまたま手に入った」と嬉しそうに届けてくれた生薬の、どこか甘く清涼な香りが鼻をくすぐる。そのたびに、素素の胸の奥は容赦なくぎゅっと締め付けられた。
仕事に不純な私情を持ち込み、あろうことか大理寺の「捜査の要」としての役目すら果たせなくなってしまった、出来損ないの自分。
(……嫌われて、当たり前だわ)
素素は、陽の射さない暗い調合室の片隅で、二度と戻ることのない「相棒」としての鮮やかな時間を思い、ただ静かに、深く落ち込むことしかできなかった。




