第19話 分不相応な期待
都に流れる噂は、風に乗る種のように素早く、そして残酷に素素の耳へと届いた。
「大理寺の謝淵明が、ついに身を固めるらしいぞ。お相手は名門・王家の令嬢だとか」
その言葉を聞いた瞬間、素素の心臓は、まるで冷たい氷を押し当てられたように鋭く、小さく縮み上がった。急に呼吸が浅くなり、視界が歪む。
胸の奥だけが、まるで抉られたように焼けるように熱い。その、その痛みに向き合ったとき、彼女はようやく、逃れようのない真実に直面した。
(……ああ。私は、あの方を――一人の男性として、狂おしいほどに慕っていたのだわ)
薬師として、あるいは「相棒」としての敬意。
そんな綺麗事の言葉で飾り立てていた感情の正体は、肌を、胸を、じりじりと焼き焦がすような――ひりつくほどの恋慕だったのだ。
しかし、その自覚と同時に訪れたのは、果てのない絶望だった。
朝廷の中枢に君臨する名門・謝家の嫡流である彼と、市井の、しかも山育ちのしがない薬師である自分。生きる世界があまりにも違いすぎる。
「……あの方を本当にお慕いしているのなら、その幸福を願うのが筋だわ。……お祝いを、言わなくては」
震える唇でそう呟きながら、素素は胸の奥の痛みを必死に押し殺した。それが、彼を愛してしまった己にできる、唯一の、そして最後の誠実さだと信じて。
そう決心し、震える心に無理やり蓋をした、数日後のことである。
薬草の仕入れの帰り道、都の賑わう大通りで、素素は唐突に足をとめた。
雑踏の向こう、人混みを自然と分けるようにして歩く、見紛うはずのない一人の長身の影。
久方ぶりに目にする謝淵明は、光を吸い込むような墨色の官服を纏い、以前と変わらず――あるいは以前よりもずっと、気高く颯爽としていた。
――そして、その隣には。
眩いほどに華やかな絹の衣を纏った令嬢が、花が咲いたような笑い声を上げながら、親しげに寄り添っていたのだ。
淵明がふと彼女の方へ顔を向け、その薄い唇の口角を、微かに和らげたように見えた。
その光景は、どんな劇薬よりも深く素早く全身の血の巡りを蝕み、素素の胸へ、凄絶な痛みとなって広がっていった。
(……お似合いだわ。本当に、絵に描いたように美しい二人……)
令嬢の透き通るような肌、名門の教育に磨き抜かれた優雅な所作。
それに引き換え、自分の指先はいつだって薬草のアクで黒く汚れ、衣からは常に土と泥、生薬の匂いが消えない。
(私のような、山育ちの薬師とは住む世界が違うのよ。……最初から、相棒なんていう言葉に浮かれていた私が、愚かだったんだわ)
喘息の発作に見舞われたかのように急に呼吸がままならなくなる。素素は疼く胸を強く押さえ、溢れ出しそうな涙を必死に堪えながら、逃げるようにその場を後にした。
――都の暗部を全て見通すあの鋭い眼が、雑踏の遥か向こうから、すでに己の姿を正確に捉えているとも知らずに。
薄暗い薬房に、苦い薬草の匂いだけが重く立ち込めている。
素素はしばらくの間、微動だにせず立ち尽くしていたが、やがて糸が切れたようにゆっくりとしゃがみ込んだ。膝を抱えて体を小さく丸め、自らの腕で、ガタガタと震える肩をきつく抱きしめる。
(……謝殿には、ふさわしい場所がある。私には、ここがある)
そう自分に言い聞かせても、先ほどの通りで見かけた光景が、鋭い棘となって胸の奥を刺し、抉り続ける。
名門の令嬢を連れ、穏やかに、しかし堂々と歩いていた謝淵明。その佇まいはあまりにも「若き大理寺承」という高貴な立場にふさわしく、あまりにも完璧だった。
自分はただ、山奥で傷ついた彼を拾い、その奇妙な縁を辿って都に流れてきただけの薬師にすぎないのだ。
彼がこれから誰を選び、誰を終生慈しもうと――自分には、口を出す権利も、ましてや涙を流す理由すら、ありはしないというのに。
「……っ……、……う、うう……」
堪えようとすればするほど、喉の奥が焼けるように熱くなる。
溢れ出す感情の濁流に、肺が押し潰されたかのように呼吸がどんどん浅くなっていく。
視界はとうに涙で歪み、膝を濡らす雫は止まることを知らない。
――これ以上、みっともない声を上げてはならない。
そう己を律し、声を抑えようと口を覆ったはずの細い指の間から。
ついに、堰を切ったようなか細い泣き声が、 ぽつりと漏れ出した。
その時だった。
――バンッ!
閉め切っていたはずの表戸が、乱暴に跳ね飛ばされた。
重い木音が静まり返った薬房に鋭く響き渡り、外の眩しい光が、薄暗い部屋へと一気に流れ込んでくる。
驚きに息を詰まらせる素素の前に、一人の男が猛然と踏み込んできた。
「素素……っ!」
彼女の名を呼ぶ声は、ひどく荒く、切羽詰まっている。
普段の端正な佇まいはどこへ行ったのか、謝淵明は肩を激しく上下させ、息を切らしている。彼が自分のために、都の大通りをなりふり構わず走ってきたのだということなど、今の素素には知る由もなかった。
「謝、殿……? なぜ、ここに……」
素素は驚きのあまり、弾かれたように立ち上がった。しかし、次の瞬間には己の無様な有様に気づき、 慌てて顔を伏せる。
涙で真っ赤になった目も、取り乱した姿も見られたくない。
しかし、淵明は迷わず彼女の傍らへ踏み込み、その細い肩を力強く掴んだ。
「なぜも何もない! 君があんな、今にも消えてしまいそうな顔をして走り去るのを見たからだ。……どうして泣いている。どこか痛むのか? 呼吸が苦しいのか!?」
「何でもありません……っ、お帰りください。……あの方を、大通りでお待たせしているのでしょう?」
「あの方」という言葉を口にした瞬間、素素の胸は再び千切れるように激しく痛んだ。
突き放そうともがくその両手を、淵明は決して逃さず、強引にその華奢な身体を自分の方へと向かわせる。
「王家の令嬢のことか!? あれはただの家同士の顔合わせで、私は一度として、彼女を妻に迎えるなどと……!」
「まっ、少し……待ってください……っ!」
怒涛の弁明に頭が追いつかず、素素は流れる涙を掌で必死に拭うが、抑えようとするほど、小さくしゃくり上げる声が唇から漏れてしまう。
涙を拭うこともできず、拒むように激しく首を振る彼女を、淵明はじっと見つめていた。だが、胸の奥からせり上がる衝動に突き動かされるまま、その華奢な身体を力強く、腕の中へと抱き寄せた。
「阿素《アース―》……」
零れ落ちたのは、愛しさをそのまま形にしたような、深く、熱く、親密な響き。
そのあまりにも特別な響きに、素素の胸の中は、押し寄せる歓喜と必死の理性がぐちゃぐちゃに混ざり合う。
このまま腕の中に囚われてしまえば、もう二度と引き返せなくなる――。
恐怖にも似た甘い予感に襲われた彼女は、咄嗟に淵明の頑丈な胸板に手を突き、全力で彼を突っぱねた。
「やめて……、お願いだから、やめてください……!」
突き放された淵明の端正な顔に、隠しようのない傷ついた色が浮かぶ。
その表情を見た瞬間、素素は己の身勝手さに絶望した。
彼を傷つけたいわけなど、決してないのだ。ただ、あの夜以来、彼の一挙手一投足に狂わされ、無様に振り回される自分が恐ろしくて、おかしくてたまらないだけ。
(落ち着かなければ……何か、釈明を、謝らなくては……)
混乱しきった頭で、なんとかその場を取り繕う言葉を探そうと焦る。
しかし、極限まで張り詰め、限界を迎えていた心の糸は――ぷつりと、音を立てて千切れた。
口からこぼれ落ちたのは、取り繕った嘘でも、都合のいい綺麗事でもない。
涙とともに溢れ出した、あまりにも無防備で、剥き出しの本音だった。
「――これ以上、私に優しくしないで……っ。私に、分不相応な期待をさせないでください……!」




