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第20話 期待の代償、一生の約束

淵明ユェンミンは驚きのあまり、一瞬にして真顔になる。


「期待……とは、どういう意味だ?」


「……最近の私は、シェ殿の前だと動揺してばかりで。計量を間違え、薬師の仕事すら疎かにして……愛想を尽かされて見限られても仕方ないことくらい、自分が一番よくわかってます!

でも、それでも……私は、あなたの隣にいたいと思ってしまう。ただの『相棒』でいいから、ずっと側にいたいと、分不相応な願いを捨てきれずにいたんです……!」


一度溢れ出した言葉の濁流は、もう誰にも止められなかった。


「……っ嫌なんです……!」


素素スースーはついに叫んだ。


「謝殿が、私以外の誰かと笑っているのを見るのが、堪らなく嫌なんです! ……あなたにはあの方のような、美しく家柄のふさわしい令嬢がお似合いです。私のような、天涯孤独の身の上で……持病を隠して必死に生きるだけの女が、あなたの隣を願うなんて、間違っているのに……!」


激しい独占欲と、それ以上に深い自己嫌悪。

涙腺が決壊し、堰を切ったように溢れ出した彼女の「真実」が、薄暗い薬房の空気を震わせた。



いつも静水のように落ち着き、淡々と振る舞う素素。その彼女が今、胸の奥底に秘めていた激情を隠そうともせず、無防備にき出しにしている。

白磁のような肌を伝い、止めどなく溢れ落ちる涙。淵明は、その痛々しいほどに美しい光景から目が離せなかった。


(……この私が彼女をここまでかき乱したのか)


彼女の誇り高い理性を粉々に砕き、自分一人のためにこれほど愛らしく泣かせている。その事実が、淵明の胸の奥にどろりとした、昏い悦びを湧き上がらせた。

もはやこれは、大理寺の調査や仕事といった理屈ではない。ただ一人の男としての、強烈な独占欲の充足だった。


淵明は、泣きじゃくる素素の細い肩に再び大きな手をかけると、逃がさないように強くつかんだ。

彼女がこれ以上、視線を逸らすことを決して許さない。その濡れた瞳を真っ向から射抜き、低く、抗いがたい力強さで告げた。


「阿素《アース―》。……期待してくれて構わない。」

「え……?」


予想もしなかった言葉に、素素は一瞬、呼吸の仕方さえ忘れてしまう。

驚きに目を見開いた彼女の唇に、淵明の顔が静かに重なった。


それは、大理寺承としての峻厳さも、名門・謝家の嫡流としての余裕もすべてかなぐり捨てた――熱く、狂おしいほどに切ない口づけだった。


「っ……ん……」


あまりに突然の、けれど深く震えるような抱擁に、素素の涙が止まる。

脳裏が一瞬にして真っ白に染まり、頭の先から爪の先までが、彼から注がれる圧倒的な熱に侵されていく。


ようやく名残惜しげに唇が離れたとき、彼女はただ、熱を帯びた瞳で、呆然と彼を見つめることしかできなかった。

淵明は、朱に染まった彼女の頬を大きなてのひらで愛おしそうに包み込んだ。


「……阿素、聞いてくれ。私は君より少し年上だ。だからこそ、大人として君の自立を尊重し、適度な距離を保つべきだと思っていたんだ」


彼は自嘲気味に、視線をわずかに落とす。


「だが……、君が同じ年の頃の若者と睦まじげに笑っているのを見かけて、私は酷く動揺した。自分が薬房に入り浸っているせいで、君から良縁を遠ざけ、煙たがられているのではないか、と……そう思って、最近は訪ねるのを控えていたんだ」


朝廷の公務では一切の迷いがない彼が、まるで初めて恋を知ったばかりの少年のように、不器用に言葉を紡いでいく。


名門の矜持きょうじを保つべきか、それともみっともない本心をさらけ出すべきか。一瞬の逡巡しゅんじゅんの後、淵明は観念したように、深い溜息をついた。


「……情けない話だが。実は、君に嫌われてしまったのではないかと……怖くなったんだ。」

「謝殿が……私のことを、怖がっていた、のですか?」


素素は我が耳を疑った。

都で数々の怪事件を暴き、かつては戦場で槍を振るったあの勇猛果敢な男が、自分のような市井の、ちっぽけな薬師の反応ひとつに本気で怯えていたというのか。


「そうだ。君を知れば知るほど、その存在が私の中で大きくなりすぎて、とうに制御不能になっていた。ワン家の令嬢との会合も、家への義理を早く終わらせて、君に会う覚悟を決めたかっただけだ」


淵明は、もう一度彼女の華奢な身体を、隙間なく強く抱き寄せた。


「期待していい。……いや、どうか私に期待してくれ。君の隣にいる権利を、他の誰にも渡したくないんだ。阿素、私の生涯の隣には……君がいてくれないか」


素素の胸を冷たく埋め尽くしていた不安は、彼女を包み込む彼の熱い体温に溶かされ、跡形もなく消えていく。

「期待させないで」と涙を流した彼女の哀しい願いは、彼の手によって、何よりも強固な「一生分の約束」へと書き換えられたのだ。


「……はい。私も……、あなたの隣が、いいです」


苦い生薬の匂いが立ち込める薄暗い薬房の中で、二人の心はようやく、深く静かに重なり合った。



しかし、想いが通じ合ったのも束の間、素素の可憐な表情には、すぐに影が差していた。


「……謝殿。お気持ちは本当に嬉しいです。でも、私は天涯孤独の身。名門・謝家の嫡流であるあなたが、私のような身寄りのない者を娶れば、あなたの輝かしい前途に泥を塗ることになります」


素素が寂しげに長いまつ毛を伏せた、その時だった。淵明は「ああ、そのことか」と、まるで明日の天気でも話すかのような軽い調子で笑った。


「阿素。私は大理寺承だ。疑わしいことは徹底的に調べるのが仕事だと、前に言っただろう? 実は君の家系について、謝家の情報網を使って少し調べさせてもらった」

「……私の、家系を?」


淵明は墨色の官服の懐から、一通の古い家系図の写しと、茶色く変色した古びた書状を取り出した。


「君の師匠である、あの人嫌いの神医殿。彼はかつて宮廷医師の長を務めていたほどの傑物だ。その彼が、なんの因果もない親のない子を、ただの偶然で拾うと思うかい?

――阿素、君の実の両親は、南方の『チェン家』。かつて我が謝家と共に国を支えながらも、激しい政争に巻き込まれて隠棲した、由緒正しき名門の末裔まつえいだ」

「え……?」


素素は息を呑み、目を見開いた。そんな大層な話、これまでの人生で一度だって師匠の口から聞いたことがない。


「でも、私はそんな……何かの間違いでは……」

「証拠なら全てここにある。君が幼少期から持っていたという、その守り袋の刺繍――あれは陳家の裏紋だ。…

…まあ、古い記録ゆえに少々散逸していたからね。朝廷の文官たちが突っ込めないよう、私が整合性が取れるように完璧に『整理』しておいた。今日にでも大理寺の公印を添えて、我が実家へ送りつけておこう」


淵明はどこか愉しげな、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「これで君は『隠棲していた名家の、気高き忘れ形見』だ。私の兄も、家の頑固な長老たちも、『あの陳家の血を引く娘なら、謝家にふさわしい』と手のひらを返して大喜びするさ」

「謝殿……それ、本当なのですか? それとも、あなたが無理やり……」

「嘘などついていないよ。ただ、真実というものは、光の当て方によっていくらでも見え方が変わるものだ。私は、君が私の隣に座るのに最もふさわしい『光』を当てたにすぎない」


淵明は呆然と立ち尽くす素素の細い腰を引き寄せ、その耳元で低く囁いた。


「君はすでに、その優れた医術と知性で私という男の命を救い、大理寺の窮地を何度も助けてくれている。そんな君にふさわしい身分を、私がこの手で整えて何が悪い? ――謝家の嫁としてではなく、謝淵明の、唯一無二の相棒として、堂々と私の隣にいろ」


素素の目に、再び涙が浮かんだ。しかし今度は、自分を惨めだと責める涙ではない。

自分の孤独な過去さえも深く探求し、輝かしい未来へと繋げてくれた彼の、強引なまでの愛しさに――素素は初めて、心の底から甘えるように深く頷いた。


「……はい。……あなたの『雑』で大胆なところ……、やっぱり嫌いにはなれそうにありません」

「はは、それは光栄だ」


――あの、山奥の秘湯での邂逅かいこうから始まった数奇な縁は。

今この時、生涯をかけて分かち合う「愛」という名の誓いへと変わったのだ。

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