最終話 愛の配剤
都の喧騒から少し離れた、謝家の静かな離れ。
そこには、かつて素素が、雪深い山里で淵明の命を救った時と同じ、清々しい薬草の香りが優しく満ちていた。
大理寺での激務を終えた淵明が、肩の力を抜き、軒先でぼんやりと庭を眺めている。ふと、隣に柔らかな気配を感じて振り返る彼の瞳には、朝廷で見せる冷徹さなど微塵もない、優しい色が浮かんでいた。
「阿素《アース―》、今日の調子はどうだい」
「旦那様。仕事から戻って開口一番、診察のような真似はやめてくださいな」
素素は少しだけ唇を尖らせながら、手際よく淹れた茶を彼の前に置いた。
かつては隙のない薬師として、自らを律しながら淡々と生きていた彼女。だが、今はただ一人、最愛の夫にだけ見せる柔らかく愛らしい微笑みを浮かべている。
その頬は、以前の雪のような白さの中に、どこか生命力に満ちた淡い桃色を帯びて、幸福そうに綻んでいた。
淵明が整えた最高の環境のおかげで、彼女の持病は随分と落ち着いていた。しかし――ここ最近、彼女は自分自身の身体の中に、確かな「変化」を感じ取っていた。
(まだ、誰にも言っていないけれど……)
素素は夫に気づかれないよう、まだ平坦なままの腹部に、愛おしそうにそっと手を添えた。
他人から見れば、決して分からないほどの微かな兆し。けれど、鋭い観察眼を持つ夫には、隠し通すのは難しいかもしれない。
「君のことは、どんな些細な変化も見逃さないと決めている。深掘りが私の性分だからね。
淵明は淹れたての茶を愛おしそうに口に運ぶと、ふと思い出したように、文机の上に置かれた一通の書状に目を留めた。南方の山里から届いた、見覚えのある力強い筆跡。
「そういえば、神医殿からの手紙を読んだよ。相変わらず辛口な老人だ」
「ふふ、勝手に家系図を『整理』して大騒ぎにしたから、師匠も呆れたのですよ」
素素はくすくすと笑いながら、手紙に綴られた師匠の言葉を頭の中でなぞった。
『あのような面倒な男を拾うから、やっぱりややこしい事態になったであろう? 大理寺の権力で家系を捏造……いや「整理」したと聞いた。全く、執念深い男だ。だがまあ、陳家の名が役立ったのなら、あの一族も少しは浮かばれる。せいぜいその男に、一生分の薬代としてこき使われるがいい』
ぶっきらぼうな文面の裏にある、実の父親のような深い慈愛。
「私はただ、合理的かつ迅速に事実を整えただけだがね」
淵明は少し雑な仕草で官服の襟を緩めると、悪戯っぽく唇を釣り上げた。
「それに、君を一生こき使うつもりなどない。私が一生をかけて、君を甘やかすと決めている」
「っ……、旦那様」
涼しい顔でとんでもない甘い言葉を口にする夫に、素素は一瞬で耳の先まで朱に染め、逃げるように茶器を片付け始めた。
いつまで経っても、彼のこういう強引でまっすぐな愛し方には慣れそうにない。
そんな彼女の初心な反応を愉しむように、淵明は満足げに目を細め、ふっと誇らしげに口元を綻ばせた。
「現に、実家の者たちが君な医術の腕を目の当たりにして、『流石は名門・陳家の血筋だ』と今や一様に感心しきりだったよ。私のあの『調査』に、何一つ間違いはなかったというわけだ」
「……ふふ。貴方のその『強引な調査』の結果には、一生かかっても追いつけそうにありません」
素素は彼の隣に腰を下ろし、控えめながらも甘えるようにその腕にそっと体を寄せた。
かつては孤独の中で生きてきた彼女。しかし今のその表情は、陽だまりのように柔らかい。
「淵明様。今夜は星が綺麗ですよ」
二人が見上げた夜空には、北極星が揺るぎない光を放っている。
戦場を駆け抜けた槍の名手と、山里に隠れ住んでいた孤独な薬師。
正反対だった二人の運命は、あの日、湯気に煙る秘湯で交わり、今や一つの物語となった。
「ああ。これからも、迷うことはない。君という星が、私の進むべき道を照らしてくれているからね」
淵明は慈しむように、愛しい妻の手を引いて微笑んだ。
素素はその温もりに答えながら、心の中で新しい命に語りかける。
(見ていてね。貴方のお父様は、少し強引で、でも私たちのために真実の深淵まで光を当て、身を挺して守り抜いてくださる、温かな御方なのよ。)
都の夜は更けていく。
二人の物語は、新しく芽吹いた命の鼓動と共に、より鮮やかに続いていくのだろう。
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明日からは武侠ファンタジーの長編『星漢共鳴曲』を毎日2話ずつ更新(7:00・20:30)で連載します。
ぜひ遊びに来てください。




