第8話 新風、都を駆ける
夜明け前の静寂を切り裂き、重厚な門が音を立てて開かれる。
淵明は大理寺の精鋭を引き連れ、保守派の重鎮である吏部尚書・李崇善の邸宅へと踏み込む。
寝所にいた祟善は、突然の乱入に顔を歪めながらも、寝衣のまま悠然と椅子に腰を下ろした。
「夜分に騒々しい。謝家の小倅が、何の真似だ。大理寺の権限を履き違えているのではないか?」
祟善は薄笑いを浮かべ、淵明の独断専行を不敬罪として糾弾する隙を窺っている。だが、淵明はその嘲笑を冷徹な眼差しで射抜いた。
「無礼なのは、どちらの方か」
淵明は、無造作に二束の書面を机に叩きつけた。
一つは素素が心血を注いで書き上げた、毒物『無影沈香』の鑑定書と御用商人の供述書。
もう一つは、謝家の情報網が暴き出した、一族ぐるみの汚職と賄賂の送金記録だ。
「大理寺の法官として、毒殺未遂および暗殺教唆の現行犯で貴殿を拘束する。そして謝家の者として、この汚職の証拠を陛下と全官僚の目前に晒そう。
貴殿の築き上げた名声も、一族の未来も、今日この時を以て灰燼に帰すことになる」
数日の間にここまで調べ上げられているとは思いもしなかったのだろう。突きつけられた「公」と「私」、二つの痛撃に、祟善の顔から余裕が消え失せた。
震える手で書類を読み進めるにつれ、その顔は土気色に染まっていく。逃げ道は、どこにもなかった。
「……待て、謝淵明。話せばわかる。謝家にとっても、私を敵に回すのは得策では――」
命乞いとも取れる醜い言葉を、淵明の放つ凄まじい殺気が遮った。かつて戦場で数多の命を奪ってきた武将としての「死の気配」が、部屋の温度を氷点下まで引き下げる。
「法を以て裁く前に、友が味わった死の淵の苦しみ、その身に刻んでやろうか」
淵明の一歩踏み出す足音に、祟善は喉を鳴らし、椅子から転げ落ちて床に這いつくばった。権力という鎧を剥ぎ取られた老人は、ただの怯えた塊に過ぎなかった。
「連れて行け。この男が、二度と日の光を浴びぬ場所へ」
背後の武官たちが一斉に動き、祟善を容赦なく引き立てていく。
窓の外からは、夜明けの光が差し込み始めていた。
◇
首謀者である李祟善の官服を剥ぎ、法の裁きを待つ罪人として、大理寺の廷上へと引き据えた日。淵明はその男の前に立ち、氷のように冷たい声で宣告した。
「貴殿が守ろうとしたのは国の秩序ではなく、己の肥大した私欲だ。そのために、官吏の命を、そして正義を弄んだ罪……法をもって、余さず償わせる」
淵明の峻烈な言葉が響き渡る。
淵明と素素の知性が共鳴して成し遂げたこの一戦は、腐敗した朝廷に、激しい変革の嵐を予感させることとなったのである。
◇
事件が一段落した後、淵明は一人、大理寺内に設けた素素の部屋を訪ねた。
大理寺承としての厳しい仮面を脱ぎ捨てた彼の肩は、どこか重い。
「素姑娘。……謝罪と、礼を言いに来た」
淵明は素素に向き直ると、絞り出すような声で続けた。
「私の……あの日、一瞬の不注意が、友を死なせかけた。私がもっと周りを見ていれば、周誠にあのような思いをさせずに済んだのだ。正義を気取りながら、足元の危機にも気づけぬとは、情けない」
悔恨に沈む淵明の言葉を、素素は遮ることなく最後まで受け止めた。そして、作業の手を止め、静かに彼を見つめた。
「謝殿。……その『不注意』は、あなたが誰よりもひたむきに真相を追い、公務に身を投じていた証でもあります。周誠殿も、そんなあなたの高潔さを知っているからこそ、あの日、お茶を譲り受けたのでしょう」
素素の言葉は、冷えた傷口に染み渡る薬湯のように穏やかだった。
「己を責める時間は、もう終わりにしましょう。あなたが廷上で示された正義こそが、何よりの報いです」
揺るぎない光を宿した彼女の凛とした佇まいに、淵明は不意に胸を突かれた。
これまで感じていた薬師としての信頼を越え、深く、揺るぎない敬意が彼の中に根を張っていく。
淵明は居住まいを正し、一歩踏み出すと、深く頭を下げた。
「礼を言わせてくれ。素先生。……本当に、感謝する。君の知見がなければ、私は今も闇の中を彷徨っていた。これからも、どうか……君の知恵を貸してはくれないか」
「先生」という呼び名に、素素は驚いたように目を見開いた。
「先生だなんて……。私はただの市井の薬師です。それに、私の方こそ謝殿の真っ直ぐな背中に、救われているのですから」
素素は少し照れたように、けれど確かな信頼を込めて微笑んだ。
二人の間に流れる空気は、以前とは少しだけ質を変えていた。それは、互いの実力を認め合いう「相棒」としての、新しい絆の始まりであった。




