第6話 身代わりの器
刺客との死闘を経て大理寺の回廊へ戻った淵明は、偶然にも薬草の籠を抱えた素素と鉢合わせた。
「……その背中。怪我をなさったのですか」
鋭い鼻を持つ彼女が、夜の闇に紛れた血の匂いを見逃すはずもなかった。素素の問いに、淵明は苦渋を滲ませて首を振る。
「かすり傷だ、すぐに治る。それよりも、早く奴らの足取りを追わねばならない。……真相を暴く好機を、これ以上逃すわけにはいかないんだ」
焦りに駆られ、強引に背を向けようとした淵明の足を、素素の静かな、けれど厳しさを帯びた声が止めた。
「謝殿。……秘湯での一件を、もうお忘れですか?」
その一言は、いかなる刺客の刃よりも鋭く、淵明の急所を貫いた。
反論しようと開きかけた唇が、苦い沈黙に凍りつく。それは、かつて生死を彷徨い、彼女の献身によって繋ぎ止められた命であることを、何よりも痛烈に思い出させる一言だった。
「お体を粗末に扱ってはいけません。傷口から目に見えぬ『邪』が入り込み、五臓を蝕めば、取り返しのつかないことになります。……こちらへ」
それは、優しさよりも先に、抗う隙を与えない響きを帯びていた。
素素の指先は驚くほど速く、それでいて一切の無駄なく傷口を清めていく。
治療を受ける間、背中に伝わるその確かな温もりと清潔な薬草の香りに包まれ、淵明の荒んでいた心は次第に落ち着きを取り戻していった。己の慢心と焦燥が、どれほど危うい均衡の上に立っていたか――彼は静かに反省する。
「……すまない。君の言う通りだ」
謝辞を口にした淵明に、素素は顔を上げることなく、集中を切らさぬ手つきで短く頷いた。
「周誠殿の容体も安定し、今日は少しばかり食事が摂れたようです。そちらの心配は、もう要りません」
その報告に安堵したものの、淵明の脳裏には逃した刺客の背が焼き付いていた。無意識に、苦い後悔で顔をしかめる。
微かな表情の変化を敏感に察し、素素が案じるように覗き込んできた。
「……痛みましたか?」
「いや、大丈夫だ」
淵明は己の不甲斐なさを無理やり喉の奥へ飲み込んだ。そして、彼女の不安を払拭するように、努めて穏やかな動作で小さく手を振ってみせた。
淵明は治療を終え、衣を整えて素素に向き直ると、険しさを帯びた声で切り出した。
「素姑娘、一つ訊きたい。……茶杯の釉薬に毒を仕込み、熱い茶を注ぐたびにその毒素を溶出させ、口にする者を害する。そのような芸当は可能か?」
刺客を逃したあの現場で、自らの手で削り取った茶器の破片。そこに施されていたであろう、目に見えぬ死の細工。
淵明の問いに、素素は指先を止め、深く静かな瞳で彼を見つめた。
「それは、おそらく『無影沈香』の類でしょう」
素素は淡々と、しかしその毒の底知れぬ恐ろしさを語り始めた。
「無影沈香は毒の精製方法の一種です。常温では凝固し、何ら害を及ぼしません。けれど、熱い液体が注がれた瞬間に熱に反応し、初めて溶け出す特性を持っています。ひとたび溶け出せば無色透明。味も匂いも……死の気配すらありません」
淵明は静かな戦慄を覚えた。
犯人は、現場で毒を投じるという初歩的な危うさすら、あらかじめ計算から削ぎ落としていたのだ。
客人が自ら熱い茶を注ぎ、安らぎの一杯を口に運ぶ。その瞬間に、あらかじめ仕掛けられていた死の罠が、音もなく牙を剥く。
「……毒を盛る『瞬間』すら必要ない。事前に器をすり替えておけば、いつ、どこで、誰がその茶を飲もうとも、暗殺は完遂されるというわけか」
淵明の言葉に、素素は静かに、しかし重く頷いた。
真相の深淵へと踏み込むほどに、今回の敵の用意周到さが浮き彫りになっていく。
それは、単なる暗殺者の仕事ではなかった。毒の特性を完璧に理解し、人の心理さえも計算に入れ、時間を味方につけた極めて狡猾な罠だ。
薄暗い薬房の中で、淵明の瞳に鋭い光が宿る。
姿なき毒の使い手が、闇の中から自分たちを嘲笑っているかのような錯覚。しかし、その正体の一端を、素素の知見が確実に白日の下に引きずり出しつつあった。
「……待て。その毒の反応、それから器がすり替えられた時期を逆算すると……」
淵明の思考が、恐るべき速度で過去の断片を繋ぎ合わせていく。真相の核心へと迫るほどに、胃の底が氷に触れたかのような、冷たい感覚が彼を襲った。
あの茶杯が置かれていたのは、大理寺にある「彼」の執務机だ。
そして、釉薬の毒を溶け出させるための「熱い液体」を注ぐ機会があったのは――。
「……あ!」
淵明の顔から、一気に血の気が引いた。
脳裏に蘇ったのは、数日前――活気立つ昼時の大理寺で交わされた、あまりにもありふれた日常の光景だ。
給仕が手際よく茶を注ぎ、官吏たちの机へ配って歩く。淵明は山積みの文書に目を落としたまま、手元の茶杯には指一本触れず執務に没頭していた。
一方で、早々に自分の茶を飲み干した周誠が、「今日はやけに喉が渇く」と笑いながら、空の器を弄んでいた。
「……私の分も飲むか。まだ手をつけていない」
淵明は視線を文書に留めたまま、無造作にその器を差し出したのではなかったか。
本来の標的は、捜査の手を緩めぬ大理寺承――淵明本人だったのだ。
だが、執務への異常な没頭ゆえに生じた自身の「無頓着」が、あろうことか親友を死の身代わりにしてしまった。
その事実が、鋭い氷の楔となって淵明の心臓を貫いた。
「私の……。狙いは、私だったのか」
愕然と呟く淵明の声が、僅かに震えた。
給仕が茶を配る瞬間でも、周誠がそれを受け取る瞬間でもない。死の罠は、淵明がいつものように「自分の器」で茶を飲むその時を、静かに伺っていたのだ。
淵明は手短に礼を口にすると、弾かれたように部屋を飛び出した。
「謝殿!」
背後で素素が制止する声が響いたが、今の彼には止まる余裕などなかった。
溢れ出す自責の念から逃れるように、夜の回廊を駆ける。
(奴らは、私が死ぬ瞬間を見届ける必要さえなかったのだ。……ただ、私の日常を罠に変えるだけで良かったのだから)
冷たい風が回廊を吹き抜け、淵明の官服を激しく揺らす。
釉薬に毒を仕込むという、ここまで手の込んだ真似ができるのは単なる刺客ではない。
謝家の威光を盾に、保守派官僚の汚職を次々と暴く自分を「病死」や「事故」に見せかけて排除したい――そう目論む、朝廷に巣食う「古狸」たちの差配に違いない。
(……兄上の言葉は、正しかったのだ)
兄の忠告を笑い飛ばしたあの瞬間の慢心が、親友を身代わりにした。取り返しのつかない過ちを、自身の傲りが招いたのだ。
(あの給仕を洗ったところで何も出まい)
恐らく給仕はただ、備え付けの棚から茶杯を取り出しただけだ。真の毒手は、その前段階に伸びていた。器を管理する蔵役に手を回したか、あるいは清掃に乗じて、執務室の茶器を「毒入りの写し」とすり替えたのか。
いずれにせよ、標的が自分である以上、奴らは今も大理寺のどこかで息を潜め、次の機会を窺っている。暗闇に光る冷たい眼光が、すぐ背後まで迫っているかのような錯覚に、淵明は強く拳を握りしめた。
「……私の目を、欺き通せると思うな」
淵明は、胸を焼く自責の念を冷徹な憤怒へと昇華させ、執務室へと続く階段を駆け上がる。
犯人の目的は、彼の掲げる「正義」を物理的に消し去ることだ。ならば、その正義を完遂し、闇を暴き立てることこそが、親友を身代わりにしてしまった不覚に対する唯一の贖罪になる。
淵明は乱暴に扉を開け放った。静まり返った室内で、あの日、周誠の手から滑り落ちた「毒の器」の破片が、窓から差し込む朝日に怪しく光っていた。




