第5話 唇に触れる死
親友を標的にされた怒りを、淵明は冷徹な仮面の下に押し殺した。今ここで感情に流されることは、犯人に逃走の猶予を与えるに等しい。
彼は大理寺承としての顔を取り戻すと、凄まじい集中力で現場となった周誠の執務机を調査し始めた。
真っ先に疑ったのは、周誠が口にしたばかりの茶であった。だが、淵明が銀の針を用い、残された茶葉と飲みさしの茶杯をどれほど丹念に調べても、毒の反応は一切現れない。
(茶葉が潔白ならば、なぜ周誠だけが倒れた……?)
淵明の思考が加速する。
毒を盛るならば、最も確実なのは口にするものだ。しかし、この場に「証拠」はない。
彼は視線を上げ、周誠が倒れる直前まで手にしていた書状や、机上の文房具ひとつひとつを、鋭い眼差しで舐めるように見つめ直す。
淵明は、かつて戦地で泥水を啜りながら生き延びた日々を思い出した。
音もなく飛来する毒矢、汚染された井戸、腐りかけの兵糧。生死の境界が曖昧な極限状態を潜り抜けてきた彼は、牙を剥く側が常に、対象が最も「油断」する生活の隙間を突いてくることを知っていた。
その時、彼の視線が、陽光を穏やかに跳ね返す茶杯の表面で止まった。
(……いや、少し美しすぎるのではないか?)
周誠が使っていたのは、最近都で出回り始めた質の良い磁器だった。大理寺で支給される無骨な器に比べれば、確かに少しばかり品が良く、役人としてのささやかな贅沢に見える。周誠が自分への褒美として新調したと言われれば、誰もが納得する程度の茶杯だ。
しかし、周誠をよく知る友人であり、幼少期より最高級の品に囲まれて育った淵明の審美眼は、その微細な異物感を逃さなかった。質実な周誠が、あえて執務中にこの器を選ぶ必然性があるか。
淵明は静かに身を屈め、茶杯の縁を凝視した。
それは、獲物を見定めた猟犬のような、激しい眼差しであった。
周誠が茶を飲んだ際に唇を触れさせたであろう箇所に、陽にかざさねば見落とすほどの、微かな「曇り」がこびりついている。
「……まさか、中身ではなく『器』そのものか」
淵明は懐から小刀を取り出すと、その茶杯の縁を迷いなく薄く削り取った。剥がれ落ちた微細な破片を慎重に検分すると、先ほど素素が指摘した『碧落草』特有の反応が明確に現れた。
毒は茶葉に混ぜられていたのではない。器の表面を覆う「釉薬」に、熱を加えれば溶け出すよう、極めて周到に仕込まれていたのである。
「茶を飲めば死へ近づく仕掛けか。……底知れぬ悪趣味だな」
淵明の低く冷ややかな声が、無人の執務室に響いた。
その瞳には、卑劣な策謀と、都の深淵に潜む闇を射抜くような、鋭く冷徹な光が宿っていた。
◇
大理寺の張り詰めた空気の中に、彼女が姿を現すだけで、そこはまるで別世界のような静寂に包まれる。
薬草の香りを微かに纏って廊下を歩く素素の姿に、すれ違う役人たちは思わず息を呑み、歩みを止めた。雪のようにどこまでも白い肌は、薄暗い回廊の中でそこだけが発光しているかのように清らかで、触れれば壊れてしまいそうな硝子細工を連想させる。
「……あれは、どこの姑娘だ?」
「馬鹿を言え。謝殿が信頼を置く医術の心得があるお方だ。だが……なるほど、言葉を失うのも無理はない」
若手官吏たちが顔を赤らめ、遠巻きに視線を送る。彼女の美しさは、決して派手ではない。むしろ、激しい雨のあとにひっそりと咲く百合のような、楚々とした、それでいて揺るぎない芯の強さを感じさせるものだった。
だが、当の本人は、そんな周囲の熱い視線には一切気づく様子もない。彼女の澄んだ瞳が見つめているのは、常に眼前の真実と、救うべき命だけだった。
その浮世離れした美しさと、静かな佇まい。それこそが、周囲の男たちが彼女に気安く声をかけることを躊躇わせる、見えない境界線となっていた。
◇
毒の出処が『器』であると暴いた淵明は、即座に大理寺の権限を最大限に行使し、茶杯の流通経路を徹底的に洗い出しにかかった。
調べによれば、その茶杯は数日前、出入りの商人から大理寺の役人たちへ「日頃の執務への慰労」と称して持ち込まれた品だった。
「この日は雨だった。熱に敏感な碧落草を釉薬に混ぜるには不向きな日だ。だが、お前は窯に火を入れた。……誰の指図で、何のために、その器だけを特別に焼いた?」
「私どもは注文通りに作業したまでです。お役人様、どうか御慈悲を」
淵明は商人や窯元の職人たちを一人残らず引き立て、逃げ場を塞ぐような厳しい審問で彼らを締め上げる。
追い詰められた彼らの証言から、ついに都の暗部で非合法な品を融通する、一人の仲買人の存在が浮上した。
「周誠を害した報いだ。口封じが成される前に、必ずその身柄を押さえる」
◇
その日の夜半、淵明は少数の手練れだけを引き連れ、都の外れに位置する仲買人の隠れ家へと踏み込んだ。
だが、その場所には、既に重苦しい鉄錆の匂いが立ち込めていた。
「……遅かったか」
淵明が低く呟くと同時に、闇の奥から幾本もの殺気が奔る。
仲買人の口は既に永遠に封じられており、代わりにそこに待ち受けていたのは、事の真相を追う淵明たちをも葬り去るために放たれた、凄腕の刺客たちであった。
「……生け捕りにしろ。誰の差し金か、骨の髄まで暴き出してやる」
親友を死の淵へ追いやった者たちを前に、淵明の内に渦巻く怒りがついに理性の枷を食い破った。
彼は腰の剣を抜き放つと、迷いなく闇の中へと身を投じる。正面から躍り出た刺客の刺突を、紙一重の転身でかわすと同時に、剣の柄でその顎を叩き上げた。骨の砕ける鈍い音が響くが、淵明は一瞥もくれない。
彼の視線は、配下の陰に隠れて逃走を図る首魁らしき男の背にのみ注がれていた。
「逃がすか」
淵明は単騎で追撃を開始する。
雨樋を蹴り上げ、屋根へと跳躍した。
月光を背に受けて閃く白刃は、まるで夜空を裂く銀光のようだ。逃げ惑う男を追い詰めると、淵明は空中で身を翻し、急降下しながら男の足元へ剣を突き立てた。
逃げ道を断たれ、恐怖に顔を歪める男の喉元に、刃が突きつけられる。
「貴様の主の名を言え。さもなくば、その舌を抜いてから考えさせてやる」
剣を握る淵明の手は微塵も震えていない。その瞳に宿るのは、都の夜よりも深く、昏い殺意であった。
だが、入り組んだ暗闇の路地は刺客たちの独壇場である。
普段の冷徹な彼であれば、罠を疑い決して足を踏み入れぬであろう死地。しかし、周誠の命を削った卑劣な策謀への怒りが、淵明の剣筋から「防御」の二字を削ぎ落としていた。
その刹那――。
完全に死角となっていた家屋の隙間から、音もなく一本の凶刃が淵明の背後へと肉薄した。
(――伏兵か!)
「っ……!」
背後を断つ、凍てつくような殺気。淵明は反射的に身を捩り、間一髪で心臓への一撃を逸らした。しかし、鋭い刃が官服と、その下の皮膚までをも切り裂く。
焼けるような熱さが背中に走り、淵明の視界が一瞬、火花を散らすように白んだ。
深追いしようと踏み出した足が、動きをとめる。
そのわずかな隙を、刺客たちは見逃さなかった。彼らは連携の取れた無駄のない動きで、路地の深淵へと溶け込むように姿を消してしまった。
「……くそっ……!」
暗がりに消えた足音を睨みつけ、淵明は壁を拳で叩いた。
背中の傷よりも、自分の慢心によって「真実」への手がかりを逃した、その事実が彼の胸を激しい悔恨で突き上げた。




