第4話 碧落の沈黙
事件が起こったのは、大理寺の役人たちが一時の休息に緊張を緩める、穏やかな昼時のことだった。
被害者は、大理寺司直・周誠。淵明とは戦地で幾度も生死を共にし、背中を預け合ってきた無二の親友である。
淵明が大理寺に転属した際、彼は迷わずそれまでの地位を捨てて付き従った。都の政争という慣れぬ戦場に奔走する淵明を、公私にわたって支え続けてきた、実直で代えがたい右腕である。
昼食を終えた役人たちの談笑が廊下に響く中、周誠は自席で午後の職務に向けた書状に目を通していた。
しかし次の瞬間、彼は突如として激しく身悶え、凄まじい勢いで床に鮮血を撒き散らした。
「……っ、周誠!」
駆け寄る淵明の目の前で、周誠の喉は見る影もなく、内側から焼けつくように膨れ上がっていく。あまりの激痛に、彼は酸素を求めて自身の喉を狂ったようにかきむしるが、潰れた声帯からは悲鳴ひとつ漏れることはない。
戦地で幾多の刃を退けてきた屈強な体が、音もなく忍び寄った「毒」という名の卑劣な牙に蝕まれ、抗う術もなく崩れ落ちていく。都の深淵に潜むどす黒い悪意が、白日の下にその姿を晒した瞬間だった。
静寂は一瞬にして崩れ去った。
「医師を呼んでこい! 直ちにだ!」
淵明の、鼓膜を震わせるような鋭い一喝。それにより、平穏な昼下がりを謳歌していた大理寺内は、蜂の巣をつついたような騒動へと一変した。
「……っ、早く医館へ運べ!」
「担架を持ってこい!」
周囲の官吏たちが色を失い、闇雲に動こうとする。中には周誠の肩を抱き起こそうとする者もいたが、淵明はそれを鋭い眼光で制した。
「動かすな! 喉が内側から塞がっている。不用意に動かせば、今この瞬間に息の根が止まるぞ。医館へ運ぶ時間すら惜しい、今すぐ医者をここに引っ張ってこい!」
その命令は、凍てつくような冷徹さと、友を救わんと切望する熱を帯びていた。
戦場において、数多の傷口を覗き込み、生死の際を見極めてきた淵明の直感だ。彼は周誠の首筋に浮き出たどす黒い血管と、喘鳴のわずかな音から、猶予が数分も残されていないことを瞬時に悟っていたのである。
駆けつけたのは、大理寺にほど近い場所で医館を構える老医師と、ちょうどそこへ薬草を届けに訪れていた素素であった。
老医師が周誠の凄惨な様子に顔を伏せ、「何らかの中毒だろうが、もはや手の施しようがない」と匙を投げる。周囲に絶望が広がる中、素素だけは迷いなく、血に汚れた床に膝をついた。
「……これは、南方の猛毒『碧落草』ですね」
彼女の静かな、けれど断固とした声が堂内に響く。
素素は、周囲に微かに漂う「焦げた苦い木の実」に似た異臭、そして周誠の爪先が毒々しい紫黒色に変色しているのを一目見るなり、その正体を看破していた。
「南方の……? なぜ、そのような毒が」
淵明の問いに、素素は答えなかった。代わりに彼女は素早く薬箱を開くと、鋭い眼差しで周誠の喉の腫れを見据える。
素素はその場で一切の躊躇を見せなかった。
彼女は薬箱から数種類の薬草と粉末を取り出すと、驚くべき手際で解毒の処方を行い、周誠の口中へと流し込む。さらに、腫れ上がった喉の急所に淀みなく鍼を打った。
静寂の中、不意に周誠の喉から「ひゅっ」と空気が通る音が漏れる。
窒息寸前だった喉の腫れが劇的に引き始めた。死の淵を彷徨っていた戦友の命を、彼女は文字通りその指先ひとつで繋ぎ止めたのである。
「……これで、喉の腫れは引いていきます。ですが、まだ油断は禁物です」
素素は額に滲んだ汗を拭うこともせず、鋭い眼差しを維持したまま淵明を振り返った。
「毒の本体が体内に残っています。彼の状態が安定し、言葉を交わせるようになるまでは、一刻も目を離さず付き添ってください。今夜が峠です」
淵明は、目の前で死を撥ね除けてみせた彼女の背中を見つめた。
かつて秘湯で瀕死の自分を救い上げたのも、この小さな手だったのだ。当時は意識がなく、彼女がどのような戦いを経て自分を繋ぎ止めたのかを知る由もなかった。
しかし今、かつてないほど冷静に、かつ迅速に友を救うその手腕を目の当たりにし、淵明は得も言われぬ衝撃を覚えていた。
(……ああ。私は、これほどまでに神がかった技に生かされたのか)
親友の命を死の淵から引き戻したその鮮やかな腕前に、淵明の胸に去来したのは、震えるような感嘆と誇らしさだった。
それは、危うい戦地を共に駆け抜けた戦友に対して抱くような、深い信頼。
「……感謝します、素姑娘。あなたが居てくれて、本当によかった」
彼は静かに息を吐き、彼女の揺るぎない背中に対し、一人の人間として深い敬意を抱いた。
死神の影が遠のき、場にわずかな安堵の空気が流れ始めた。
ふと我に返った素素は、自分に向けられた役人たちの驚嘆と困惑の入り混じった視線に気づき、ハッとして小さく身を縮める。
「……大理寺という公務の場で、出過ぎた真似をいたしました。申し訳ございません」
医術に没頭していたときの鋭さは影を潜め、いつもの慎ましやかな娘に戻って頭を下げる彼女に、傍らの老医師が朗らか笑声を上げた。
「何を仰る。流石は江南の神医殿のお弟子さんだ。見事な手際、私もまだまだ学ばせてもらわなくてはならん。また薬草を届けてくれる折には、ぜひ詳しく語らおうではないか」
この老医師は、若き才能に嫉妬するどころか、謙虚に彼女の腕を称える度量を持った好人物であった。
彼は自分の医館で周誠を預かろうと申し出たが、毒が絡む暗殺未遂という事件の性質上、被害者を外部へ出すのはあまりに危険が伴う。
「いや、ここで看る。……素姑娘、君に彼の命を預けたい」
淵明の強い、そして切実な要望により、事態が落ち着くまで大理寺の内部で、素素が直接周誠の容体を管理することとなった。それは、彼女の腕前を誰よりも信頼する淵明が下した、最善の決断であった。




