第3話 謝家の鋭矢
一見すると物静かな貴公子だが、その実、一度疑いを持てば真実を突き止めるまで決して手を止めない、鋭すぎる一矢のような弟。
その並外れた才能が謝家の未来を切り拓く力となるのか、それとも一族を揺るがす火種となるのか。
予測のつかない動きを見せる弟を、都にある謝家の本邸で若当主を務める兄は、期待と不安の入り混じった眼差しで見守っていた。
「淵明、都は戦場よりも利害関係が複雑に絡み合う場所だ。あまり深入りしすぎるな。……身辺にはくれぐれも気をつけろよ」
しかし、当の淵明はどこ吹く風である。
いかにも楽しげに目を細めると、「兄上、考えすぎですよ。そんなに心配ばかりしていたら、老け込んでしまいます」と、朗らかな声で笑い飛ばした。
◇
連日のように都を駆け回り、積み上がった書面を精査する――。
大理寺承としての執務は、凝り性の淵明にとって充実してはいたが、息つく暇もないほどに彼を追い立てていた。
ある日の暮れ方。ようやく大理寺を後にした淵明は、夕闇に包まれ始めた都の通りを歩いていた。その足取りはどこか危うい。自分の体力の限界には無頓着な彼は、三日ほどまともな睡眠をとっていないことさえ、すっかり忘れていた。
「……流石に少し、目が霞むな」
ふう、と小さく息を吐く。
そんな時だった。
(あの後ろ姿は⋯⋯)
視線の先に立っていたのは、かつて秘湯で淵明の命を救った素素の姿だった。
彼女が薬房を構えたのは、権力者が集う壮麗な中心部ではなく、あえて庶民の怒号と活気がひしめき合う一角であった。
かつて彼女から開業の相談を受けた際、その瞳に宿っていたのは、私利私欲とは無縁の静かで、しかし決して揺るぎない光だった。
「貴人の方々には、すでにお抱えの名医がいらっしゃるでしょう? 私は、今日を生きるのに必死な人々の、小さな助けになりたいのです」
淡々と、しかし一点の曇りもない声でそう告げた彼女の姿を、淵明は今も鮮明に覚えている。
この女性は、世に溢れる虚飾や権威に惑わされることはない。彼は一人の人間として、その潔い生き方に、心の底から深い敬意と好感を抱いたのである。
つい数刻前まで、血なまぐさい汚職事件の矛盾を追っていた鋭い眼差しが、一瞬で緩む。淵明はいつもの楽天的な笑みを浮かべようとしたが、疲れからか、少しだけぎこちないものになった。
「素姑娘。薬房の方は繁盛しているかい?」
不意に名を呼ばれ、素素は驚いたように足を止めた。しかし、相手が淵明であると気づくと、その目は柔らかな光をたたえる。彼女は抱えていた薬草の籠を軽く持ち直し、丁寧な一礼を返した。
「謝殿。おかげさまで、日々忙しくさせていただいております。開業の折には、多大なるお力添えを賜り、誠にありがとうございました」
その声は、かつて決意を語った時と変わらず、清らかで芯が強い。
彼女が営む薬房は、今や単なる薬売りにとどまらなかった。素素が持つ確かな医術の心得と、身分を問わず真摯に向き合う人柄を聞きつけ、路地の奥にある小さな薬房には診療を請う人々が昼夜を問わず後を絶たないという。
もともとは、淵明がことあるごとに「新しく店を出した素姑娘は、腕も知識も並外れている。一度頼ってみるといい」と、周囲に触れ回ったのが始まりだった。
彼にとってそれは、単なる恩返しや同情ではない。秘湯での一件を経て、淵明が素素の持つ天性の才と誠実さを「本物」だと断じたからこその推奨であった。
彼の言葉は、名門謝家の次男という信用の重みも手伝って、瞬く間に都の知己たちの間に広まっていった。
今では淵明の屋敷の者たちも、何かあれば真っ先に彼女を贔屓にするようになっている。
「淵明様の目は確かだ」
そんな信頼が定着した結果、薬の納品や往診のために彼女が屋敷を訪れることも、今や日常の風景となっている。
「……それは良かった。君の志が形になっているようで、私も嬉しいよ」
淵明は普段通りに笑ったつもりだったが、ふと、素素の眼差しに困惑の色が混じるのを敏感に察した。
彼女の視線は、淵明の顔に刻まれた濃い隈と、泥の跳ねた官服、そしてわずかに解れた袖口に注がれている。
「……少し、顔色が優れませんね。大理寺の仕事がそれほど過酷なのですか?」
素素は抱えていた薬箱を腕の中で締め直し、一歩踏み込んだ。その眼差しは、先ほどまでの穏やかな再会の喜びから、瞬時に「薬師」としての鋭さへと変わっている。
彼の眉間に溜まった影、微かに震える指先。それらが、淵明がどれほど自分の限界を無視して走り続けてきたかを雄弁に語っていた。
「なに、君に救われた命だ。これくらいで根を上げたりはしないさ」
淵明は、疲れた顔にいつもの快活な笑みを浮かべて見せた。その言葉に嘘はない。死線を潜り抜けた経験を持つ彼にとって、目の前の難事件を追う高揚感は、肉体の疲労を忘れさせるに十分なものだった。
だが、そんな強がりが彼女に通じないことを、彼は知っておくべきだった。
「また、そうやって無理をなさって。命を救ったのは、あなたがそれを粗末に扱うのを見るためではありません」
素素は呆れたように嘆息をついた。しかし、その瞳の奥には、過酷な都の権力闘争の中に身を置きながらも、依然として変わらぬ「放っておけない朗らかさ」を持つ彼への、どこか安心したような色が滲んでいる。
「謝殿。大理寺の正義を成すのも結構ですが、まずはご自分の呼吸を整えることをお忘れなく。……今夜は、私が調合した薬草茶を必ず飲んでお休みください」
呆れたような、それでいて深い慈しみを湛えた素素の言葉に、淵明は気まずそうに、照れ笑いを浮かべて頭を掻いた。
「はは、これは手厳しい。だが、名医の指示には従うとしよう」
降参だとばかりに両手を軽く上げた淵明は、久しぶりに耳にした、彼女の小言を心地よく感じていた




