第2話 大理寺の新任官吏
大理寺の庁舎内、張り詰めた空気の流れる大講堂。
そこに集った官吏たちを前に、長官である大理寺卿が、捧げ持った宣旨を厳かに広げた。
本来、従六品上の大理寺承への任官に、これほど大々的な場が設けられることは稀である。しかし、戦地での武功を司法の場へと転じさせるという今回の異動は、皇帝自らの強い意向によるものだった。
「――前線での武勲、誠に見事であった。その慧眼をもって、今後は大理寺にて都の静謐を守り、法の正しきを示せ」
長官の朗々とした声が響き渡る中、居並ぶ官吏たちは、最前列に控える若き将軍――謝淵明の背中に、品定めするような視線を投げかけた。
「南方の名門出身の御曹司に、この泥臭い大理寺の職務が務まるのか」
「現場上がりの武将が、法の機微を解せるものか」
羨望と侮りが混じり合う無言の圧力が、彼の肩にのしかかる。
しかし、淵明は微塵も揺るがない。流れるような優雅さと、武人らしい凛とした力強さを以て、その場に平伏した。
「身に余る光栄。この淵明、拝承いたしました。大理寺の職責、粉骨砕身努める所存です」
低く落ち着いた声が、堂内に凛として響く。その隙のない礼法と、戦場を潜り抜けてきた男の堂々たる面構えに、周囲の雑音はいつしか静まり返っていた。
淵明が拝命の言葉を終え、静かに立ち上がると、それまで押し殺されていたざわめきが、波紋のように堂内へ広がっていった。居並ぶ官吏たちは、互いに目配せをしながら、声を潜めて囁き合う。
「……前線の、それも南方の最前線を駆けていた将軍が、なぜ司法の中枢であるこの大理寺へ?」
「左遷かとも思ったが、陛下がわざわざ宣旨を下されるとはな」
疑念の混じった視線が淵明の背中に突き刺さる。しかし、古参の官吏の一人が、顎に蓄えた髭を撫でながら、意味深げに目を細めた。
「いや……聞き及んでいるぞ。彼はただの武骨な将ではない。戦場において、数里先の伏兵の呼吸すら見抜く、恐るべき観察眼の持ち主だという」
「観察眼……?」
「ああ。陛下は、その慧眼こそが、血生臭い戦地よりも、この複雑怪奇な都に蠢く事件を裁くのに向いていると判断されたのだろう。大理寺に、新たな『猟犬』を放たれたというわけだ」
その囁きを背に受けながら、淵明は微塵も表情を動かさない。ただ、涼やかな瞳の奥に、都の闇を冷徹に見据えるような、鋭い光を一瞬だけ宿した。
◇
大理寺承――本来、その職務は獄に繋がれた罪人の記録を精査し、判決文の矛盾を正す書記であるはずだった。
だが、淵明が着任して以来、大理寺の空気は一変した。
「……おかしい。この証言、風向きと火の回りが合いません」
整った眉をわずかに寄せ、淵明は墨の乾ききらぬ書面を指先で叩いた。その顔立ちは涼やかで、一見すると沈着冷静な貴公子のそれだが、内側にあるのは戦場で培われた「徹底的な合理性」と、仕事に対する底なしの執着である。
「謝承、君の仕事は……」
「現場を見てまいります。書面の矛盾は、真実か、あるいは悪意の隠蔽か。確かめねば今夜は眠れそうにありません」
上官の溜息を背に、淵明は立ち上がった。長身を包む官服の裾が、迷いのない歩みに合わせて凛と翻る。
彼が向かったのは、都の有力官吏が所有する広大な別邸。そこには、主の「権威」を盾に捜査を拒む門番たちが立ち塞がっていた。
「ここは陛下の覚えもめでたい御方の私邸だ。大理寺の小役人が踏み込んで良い場所ではない」
並の役人ならその威圧に沈黙するところだが、淵明は端正な顔に、柔らかくもどこか食えない笑みを浮かべた。
「ごもっとも。ですが、私の実家である謝家とこちらのご主人とは、古くから茶を嗜む仲でして。今日は大理寺の役人としてではなく、謝家の次男として、家柄に相応しい『挨拶』に伺ったつもりです」
淵明は懐から一通の書状を取り出した。それは彼が移動の馬中で適当に書き上げたものだったが、そこには紛れもなく名門・謝家の印が押されている。
「親戚同然のよしみであれば、門を閉ざす理由もないはず。……それとも、この淵明に、謝家の名に泥を塗るような不調法をさせたいとお望みですか?」
その声は穏やかだが、眼差しは戦場で槍を振るい、敵の急所を貫いてきた時のように鋭く、冷徹だ。
門番が恐怖に息を呑むと、淵明は満足げに頷き、一歩、土足同然の勢いで邸内へ踏み込んだ。
「さあ、通していただきましょう。一度気になったことは、根っこまで掘り返さねば気が済まない性分なのです。……お互い、無駄な争いは避けたいでしょう?」
彼は周囲の困惑をよそに、迷いのない足取りで奥へと進む。その所作には名門出身ゆえの気品が漂っている。
一方で、自分の官服の裾が泥で汚れていることには、全く気づいていない様子だった。




