第1話 秘湯での出会い
空は鈍色の雲に覆われ、粉雪が謝淵明の肩を白く染めていた。
手綱を引く愛馬の鼻息が、冷たい森の空気に白く溶ける。淵明は先の戦で受けた肩の矢傷を、手近な布で縛っただけの状態でここまで来た。
「ここが、噂に名高い秘湯か……」
目の前には、池と見紛うばかりの広大な温泉が、もうもうと幻想的な湯気を立ち上らせていた。周囲の雪景色を溶かすように広がるその光景は、あらゆる傷や病を癒やすという伝説にふさわしい神秘をまとっている。
(肩の傷はすでに塞がりかけている。だが、この秘湯は血の巡りを良くする……もし体調に異変を感じるようなら、早めに切り上げるとしよう)
淵明は重い衣を脱ぎ捨てた。そして、凍てつく身体をゆっくりと、深緑を帯びた湯に沈めていく。
「……っ、生き返るようだ」
心地よい熱が、芯まで冷え切った四肢を解きほぐしていく。
だが、彼は知らなかった。彼の肩口の傷は単なる矢傷ではない。その矢尻には、極寒の地で調合された遅効性の猛毒「千糸凍」が仕込まれていたのだ。
湯の熱が、冬眠状態だった毒を呼び覚ます。
湯の効能で急激に高まる体温。拡張する血管。本来なら傷を癒やすはずの血流の加速が、今は死を運ぶ奔流へと変わる。毒は爆発的な勢いで心臓へと牙を剥いた。
「が、はっ……!?」
突然、内臓を氷の楔で貫かれたような激痛が走る。同時に、血管に熱した鉛を流し込まれたような矛盾した熱さ。視界は急激に狭まり、指先がどす黒い紫色へと変色していく。
「……ど、毒、か……」
立ち上がろうとするが、身体は鉛のように重い。遠のく意識の淵で、雪を踏みしめる足音が聞こえた。
「馬鹿な人。これほどの寒毒を抱えて、この名湯に飛び込むなんて」
鈴を転がすような、しかし凛とした声。
現れた女は、ぐったりとした淵明を驚くべき力で湯から引きずり出した。彼女は即座に懐から銀針を取り出すと、彼の指先と耳たぶを迷いなく突いた。
「う、あ……」
「声を出しなさい! 意識を繋ぎ止めて!」
ドロリとした黒ずんだ血が、白い雪の上に滴る。彼女はさらに、湯の成分を凝縮させた石膏の粉末と薬草を練り合わせると、淵明の心臓とうなじに素早く貼り付けた。
石膏の持つ収斂の力が血管を強制的に引き締め、心臓へと押し寄せる毒の奔流を食い止める。
「……息を吐いて。私を見て。内の熱を、すべて外へ放り出すのです」
耳元で囁かれる柔らかな、けれど拒絶を許さぬ指示。淵明はそれに縋るように、必死に肺の空気を吐き出した。暴走していた熱気が、呼気と共にわずかずつ霧散していく。
死の淵で、最後に彼が捉えたのは――雪のように白い肌を持つ、美しい女の瞳だった。
◇
素素は意識を失った青年を、雪に埋もれる秘湯近くの自らの庵へと運び込んだ。
年の頃は二十代半ばだろうか。手入れの行き届いた槍、厚い手の皮、そして何より、まとっている衣の質の良さ。
(……ただの兵卒ではないわね。それなりの家柄の、それも実戦を潜り抜けてきた将格の男かしら)
素素はその聡明な知見で、彼が謝淵明という名門の将であることを知らずとも、その貴い素性を静かに見抜いていた。
(体内の毒がどれほど残っているのか分からない。まずは師匠に判断を仰がなくては)
彼女は、冷たい雪を蹴立てて師匠の元へと走った。
◇
青年はそれから数日、深い眠りと治療の繰り返しの中にいた。
師匠は「そのような男、命を救えば後々面倒なことに巻き込まれるぞ」と渋い顔をしたが、「見殺しにできない」という弟子の熱意に負け、秘伝の治療法を授けてくれた。
(まだ血管の壁に、毒の残滓がこびりついている。次は「外側」から誘い出さなくては)
素素は温泉の沈殿物である「湯の花」に、解毒の薬草を蒸した汁を練り合わせ、特製の温かな泥薬を作った。それを青年の全身、特に毒が滞りやすい関節や脈の打つ箇所へ厚く塗り込めていく。
泥を塗る指先から伝わる彼の肉体は、想像以上に大きく、逞しかった。
無数に刻まれた古い傷跡は、彼がこれまで背負ってきた凄絶な戦いの歴史を物語っている。
(これが武人の体……。私の世界とは違う、あまりに苛烈な場所で生きてきたのね)
初めて触れる武人の荒々しくも美しい肉体に、素素は薬師としての使命感とは別に、言葉にならない畏怖と微かな動揺を覚えていた。
石膏泉特有の吸着力が、皮膚の毛穴を伝って奥底の毒素を穏やかに引き出していく。泥の温もりに包まれた青年の表情から、ようやく死の影が消えた。
窓の外の雪明かりを受け、眠る彼の顔に柔らかな安らぎが差し込んだのを、素素は安堵とともに見守る。
仕上げに、青年の背にある「命門」や足裏の「湧泉」へ銀針を打つ。
「……よし。通りが良くなったわ」
針を抜いた跡から、毒に染まった黒ずんだ血がわずかに溢れ出し、それと共に彼を縛っていた「千糸凍」の呪縛が解けていく。彼の呼吸は、雪解けの水のように静かで深いものへと変わっていった。
◇
数日後、青年はついに混濁した意識の底から浮上した。焦点の定まらない瞳が、ゆっくりと周囲を巡る。
「目が覚めましたか。ここは秘湯の近くにある私の庵です」
青年は焼けるような喉から、ようやく掠れた声を絞り出した。
「……貴女が、手当てを……?」
素素は短く頷くと、厳しい視線を彼に向けた。
「千糸凍を宿したままあの湯に浸かるなど、自殺行為も同然。矢傷も放置され、体は悲鳴を上げていました。……ご自身の命を、これほど粗末になさるのですか」
叱責に近い言葉に、青年は呆然としていたが、不意に何かに弾かれたように起き上がろうとした。
「……帰らなければ。っっ……!」
「まだ動いてはいけません!」
素素が鋭く制するが、彼は苦悶に顔を歪めながらも食い下がる。
「私は、どのくらい眠っていた……? 配下たちが、私の不在に混乱しているかもしれない」
「眠っていたのは三日ほどです」
素素は小さな器を手に取り、青年の枕元に腰を下ろした。中身は石膏の微粉末とナツメを丹念に炊き込んだ薬膳粥だ。
「まずはこれを。外から入った毒熱は、内からの石膏で鎮める。それが治療の道理です」
素素は匙を彼の唇に押し当てるようにして、凛と言い放った。
「今は部下のことも、軍のことも忘れなさい。ここでは、貴方はただの『死にかけた愚かな患者』に過ぎないのですから」
その物言いは苛烈だが、瞳の奥には捨て置けないという深い慈愛が宿っていた。
覇気に満ちた将軍としての顔が、その時だけは毒気の抜けた青年のものに変わる。淵明は一瞬虚を突かれたあと、諦めたように大人しく横になった。
食後、素素は香油を手に取り、彼の荒れた指先を丁寧に揉みほぐし始めた。
石膏泉で乾燥しきった肌に油が馴染み、庵の中に清々しい香りが広がる。素素の柔らかな手の温もりに触れているうちに、淵明の瞳に宿っていた焦燥の火は静かに消え、穏やかな眠気へと溶けていった。
「貴方は私の命の恩人だ。私は謝淵明……。失礼でなければ、貴女の名を伺っても?」
淵明が真っ直ぐに視線を向けると、彼女は少しだけ視線を泳がせ、小さな声で答えた。
「……素素といいます」
その知的な佇まいや厳しい物腰からは想像もつかない、あまりに幼く可憐な響き。淵明の顔に「意外だ」という驚きがありありと浮かぶ。
それを見た彼女は、瞬時に顔を赤らめ、語気を強めて食ってかかった。
「……っ、両親を早くに亡くして、幼い頃からずっとこの名で呼ばれて育ったのです。似合わないことくらい、自分が一番よく分かっています!」
「いや、そんなことは……」
戦場では怯まぬ武将が、年若き娘の勢いにタジタジとなって言葉を濁す。
そこへ、庵の戸を叩く遠慮のない声が響いた。
「おい素素! 新しい生薬を持ってきたぞ。おや、若い男を連れ込んでるなんて、お前もようやくそんな年頃か!」
現れたのは顔なじみの薬売りの男だった。
「馬鹿なことを言わないで! この方は患者です」
素素は冷ややかにあしらうが、薬売りが気安く「素素」と呼ぶたびに、彼女の眉の間に深い皺が寄るのを淵明は見逃さなかった。
(……なるほど。その名で呼ばれるのを、彼女はあまり好んでいないのだな)
彼女の矜持に触れた淵明は、敬意を込めてこれからは「素姑娘」と呼ぼうと心に決めた。
◇
寒さが和らぎ、柔らかな春の兆しが森を包む頃。
馬を操れるほどに全快した淵明は、ついに都へと発つ日を迎えた。養生を終えたその肌は艶を増し、瞳の奥に宿っていた毒の陰りは跡形もなく消え去っている。
「……助けていただいたこと、改めて感謝いたします、素姑娘」
「素素」ではなく、一人の自立した女性として敬意を込めたその呼びかけに、彼女は一瞬驚いたように目を丸くした。それから、どこか面映ゆげに、けれど春の陽だまりのような柔らかな笑みを浮かべる。
「お役に立てて光栄でした。……道中、どうかお気をつけて」
しかし、彼の駆ける蹄の音が遠ざかった後の庵で、素素は机の上に置かれた「ある物」を見つけて凍りついた。
そこにあったのは、謝家の次男にして将軍の位にある彼が、軍令を下す際に用いる重厚な金印だった。
「あの馬鹿な患者……! これがなければ、彼は門を潜ることさえできないじゃない!」
素素は印を握りしめ、急いで旅支度をして山を降りた。だが、戦功を挙げた将軍・謝淵明の駆ける駿馬はあまりに速い。息を切らし、泥にまみれながら必死に彼を追いかけて辿り着いたのは、皮肉にも喧騒に満ちた都の城門前だった。
そこでは折悪く、普段以上に厳しい検問が行われていた。案の定、身分を証立てる印を失くした淵明は門の手前で足止めを食らい、部下たちが門番を相手に必死に弁明している。
「……はぁ、はぁ……謝淵明殿! 忘れ物です!」
人混みをかき分け、枯れた声で叫んだ彼女に、馬上の男が弾かれたように振り返る。駆け寄った素素が、掌にある金印を突き出すように差し出した。
「これがないと、門も通れないでしょうに……! 」
再会した淵明は、己の失態を「相変わらず雑だな、私は」と豪快に笑い飛ばした。そして、馬から飛び降りると、埃にまみれた素素の両手を優しく取り、真剣な眼差しで見つめた。
「君のような賢い人間を、あの雪深い山に閉じ込めておくのは我が国の損失だ。ここまで来させてしまった責任は、私が取る。都に、君の薬房を開く手伝いをさせてくれないか」
突然の申し出と周囲の好奇の視線に、素素はうっすらと頬を染めた。しかし、眼前に広がる都の活気と、これまで見たこともない高度な医療技術への好奇心には抗えない。
「……都の医術には、興味があります。謝殿のその性格も、私が側で治療しましょうか」
素素が少し生意気に微笑むと、淵明は快活に笑って頷いた。
冬の秘湯で死の予感とともに始まった縁は、春の陽光が降り注ぐ都で、新しい物語へと鮮やかに芽吹いていった。




