第九話 自分の意志
――だから。
あの瞬間を、誰かに見られているなんて思わなかった。
◇
翌朝。
店先の空気が、妙だった。
朝から客は多い。
なのに、どこか視線を感じる。
「……あれじゃない?」
「昨日の」
「やば、ほんとにいた」
ひそひそ声。
スマホを向けられている気配。
嫌なざわつきが、肌へまとわりつく。
「……何」
湊が眉を寄せた、その時だった。
「湊、ちょっと来な」
祖母が、珍しく固い声で呼ぶ。
胸がざわつく。
店の裏へ入った瞬間。
そこには、父が立っていた。
スーツ姿。
冷たい表情。
そして、その隣には見知らぬ男が二人。
「……父さん?」
空気が重い。
すると机の上へ、スマホが置かれた。
画面を見た瞬間。
湊の血の気が引く。
昨夜の写真だった。
花火の光の下。
浜辺でキスしている、自分とジョージ。
「っ……」
写真はすでにSNSへ流れていた。
軽薄なコメントが並んでいる。
“リアルBL”
“海の王子と美少年”
“エモすぎ”
吐き気がした。
「……保護責任者という立場で未成年と私的関係を持つのは問題です」
父の隣の男が冷たく言う。
ジョージの会社の人間らしかった。
「社としても看過できません」
その時、背後で扉が開いた。
「……失礼します」
低いジョージの声。
振り返る。
ジョージだった。
でも昨日とはまるで違う顔をしていた。
顔色が悪い。
目の奥が冷えている。
湊は思わず一歩近づく。
「ジョージ——」
しかし。
ジョージは、一瞬だけこちらを見て。
すぐに視線を逸らした。
胸がざわつく。
父が静かに告げる。
「黒瀬はこの件から外す」
世界が止まる。
「……え」
「今日限りで、お前の担当も終了だ」
耳鳴りがした。
「待って」
湊は思わず父を見る。
「そんなの……」
「当然だ」
父の声は冷たかった。
「お前は高校生だぞ」
鋭い視線が突き刺さる。
「こんな関係、お前のためにならない」
胸が強く揺れる。
「今は浮かれているだけだ」
「年上の男に守られて、特別扱いされて、恋愛みたいに錯覚してるだけだ」
「違……」
「違わない」
言葉を遮られる。
「お前はまだ子どもだ」
「今の感情だけで、自分の将来を壊すな」
その言葉が、鋭く胸へ刺さる。
未成年。
保護者。
普通じゃない。
頭の奥で、自分でも見ないふりをしていた不安が、一気に膨らんでいく。
昨日までの熱が、急に現実へ引き戻される。
自分は高校生で。
ジョージは大人で。
この関係は、本当に“普通”じゃない。
すると。
「……湊」
ジョージが静かに名前を呼んだ。
その目が、痛いくらい優しかった。
そして。
「悪かった」
「……え」
「もう会わない」
世界が、ぐらりと揺れた。
「忘れろ」
◇
「忘れろ」
その言葉だけが、頭の中へ何度も響く。
湊は、ただジョージを見ていた。
嘘だ。
そう思った。
だってジョージは今にも壊れそうな顔をしていた。
なのに。
「……行きます」
低い声を残して、ジョージは背を向ける。
「待っ——」
反射的に腕を掴もうとした。
でも。
ジョージは振り返らなかった。
そのまま、店の裏口から出ていく。
「ジョージ!!」
叫んだ声だけが虚しく響く。
父が静かに言った。
「これで終わりだ」
その瞬間。
湊の中で、何かがすっと冷えた。
夢から覚めたみたいだった。
花火。
夜の海。
キス。
全部、“夏の熱”だったんじゃないか。
そう思いかける。
すると父が続けた。
「お前は流されやすい」
「だから俺が止めないといけない」
その言葉に。
湊はゆっくり顔を上げた。
「……なんで」
掠れた声。
「なんで父さんが決めるの」
父が眉を寄せる。
「湊」
「ジョージも」
「父さんも」
「みんな勝手に決めるじゃん……!」
胸が熱い。
悔しい。
苦しい。
でもそれ以上に。
腹が立った。
「俺だって意思あるのに……!」
初めてだった。
こんなふうに、自分の感情を外へぶつけたのは。
父は険しい顔のまま言う。
「お前はまだ、自分にとって何が正しいかわからない年齢だ」
「じゃあ父さんはわかってるの?」
震える声。
「俺が何考えてるか」
「何が苦しかったか」
「何が欲しかったか」
父が黙る。
湊は唇を噛んだ。
ずっとそうだった。
父は“正しいこと”しか見ていない。
でも。
ジョージだけは違った。
◇
夜。
離れの小屋。
真っ暗な部屋の中で、湊は一人座っていた。
窓の外では、まだ祭りの名残みたいに遠くの音が響いている。
でも。
自分だけ、世界から切り離されたみたいだった。
机の上には、ジョージが置いていったラムネ瓶。
脱ぎっぱなしの黒いTシャツ。
どこを見ても、ジョージがいる。
なのに。
本人だけがいない。
「……っ」
苦しい。
息ができない。
湊はジョージのTシャツで顔を覆った。
まただ。
また置いていかれる。
母も。
父も。
結局みんな。
最後には、自分を選ばない。
「……なんで」
涙がぽたぽた落ちる。
好きだって言ったくせに。
絶対一人にしないって言ったくせに。
なんで最後は離れていくんだよ。
その時。
視界の端に、小さなガラスが映った。
青いシーグラス。
あの日。
夜の浜辺でジョージが拾ってくれたもの。
――“無理やり丸く削られた感じ。でも、そこも綺麗だ”
思い出した瞬間。
胸の奥で、何かが熱を持った。
ジョージは。
“高校生だから可愛い”なんて、一度も言わなかった。
“守ってやりたい”だけでもなかった。
一人で平気なふりをしていた自分を見抜いて。
寂しい顔を見つけて。
ちゃんと、怖がってくれた。
僕が傷つくことを。
泣くことを。
未来を失うことを。
誰より本気で心配していた。
それなのに。
父も。
ジョージも。
勝手に“湊のため”を決めて、離れていこうとしている。
ふざけんな。
胸の奥で、熱が燃え上がる。
愛されるだけじゃ嫌だ。
守られるだけじゃ嫌だ。
自分だって、自分の意思で選びたい。
欲しいなら、自分から掴みに行きたい。
湊は涙を拭い、シーグラスを強く握り締めた。
「……勝手に終わらせんなよ」
震える声。
でもその目には、もう“諦め”だけじゃない熱が宿っていた。




