第十話 それでも好き
「……勝手に終わらせんなよ」
震える声が、静かな離れへ落ちる。
波の音だけが返事みたいに響いていた。
湊はシーグラスを握り締める。
冷たい感触。
ジョージが拾ってくれた、小さな青。
――“無理やり削られて丸くなった感じ。でも、そこも綺麗だ”
あの低い声を思い出した瞬間、胸がまた痛くなる。
「……っ」
会いたい。
声が聞きたい。
ちゃんと、本音を聞きたい。
なのに。
ジョージは、“忘れろ”と言った。
湊はぎゅっと目を閉じる。
その時だった。
――コンコン。
小さな音。
湊が顔を上げる。
窓の外に、人影があった。
一瞬、心臓が跳ねる。
ジョージ。
そう思った。
でも違った。
「……ばあちゃん」
祖母だった。
祖母は静かに窓を開ける。
「入るよ」
いつもよりずっと優しい声。
湊は慌てて涙を拭った。
でも、隠しきれていなかったらしい。
祖母は小さくため息を吐く。
「ひどい顔」
「……うるさい」
声が掠れる。
祖母は何も言わず、離れの中へ入ってきた。
そして机の上のシーグラスを見る。
「それ、ジョージくん?」
湊は小さく頷いた。
祖母はしばらく黙っていた。
それから、ぽつりと呟く。
「好きなんだねぇ」
その言葉だけで、涙がまた溢れそうになる。
湊は顔を伏せた。
「……好きだよ」
認めた瞬間。
胸の奥が、痛いくらい熱くなる。
「すげぇ好き」
涙がぽたぽた落ちる。
「でも……それだけじゃない」
祖母が静かに湊を見る。
湊は震える息を吐いた。
「俺、小さい頃から、誰かが離れてくの平気なふりしてた」
ぽつり、ぽつりと零れる。
「母さんも、父さんも」
「忙しいから仕方ないって」
「寂しいとか言ったら困らせるって」
喉が熱い。
でも止まらなかった。
「だから、なんでもない顔するの、上手くなって」
「一人で平気なふりして」
「どうせ最後はみんないなくなるって思ってた」
祖母は何も言わない。
ただ静かに聞いている。
「でも、本当はずっと寂しかった」
涙が落ちる。
「置いてかれるの、怖かった」
自分でも驚くくらい、言葉が溢れる。
今まで、こんなふうに口にしたことなかった。
「ジョージは、それを見抜いた」
シーグラスを握る指に力が入る。
「“一人で平気なふりしてる”って」
「“寂しいなら寂しいって言え”って」
胸がぎゅっと痛む。
「俺、あの人といる時だけ、ちゃんと自分でいられたんだよ……」
無理して笑わなくていい。
平気なふりをしなくていい。
寂しいと言っていい。
そんなふうに思えたのは、初めてだった。
「好きになってくれたから好きなんじゃない」
湊は涙を拭いながら顔を上げる。
「俺が、ジョージを好きなんだ」
その言葉は、不思議なくらい真っ直ぐ出た。
祖母は小さく息を吐く。
「なら、答え出てるじゃないか」
静かな声。
「でも父さんは……」
「父親は、“正しいこと”しか見えない人だからねぇ」
祖母は肩を竦める。
「でも、あんたの気持ちまで決められるわけじゃない」
胸の奥が熱くなる。
湊は唇を噛んだ。
すると祖母が、じっとこちらを見た。
「で」
「……え」
「このまま終わるの?」
息が止まる。
祖母は真っ直ぐだった。
「待ってるだけで終わる恋なら、そこまでだよ」
その言葉が、胸の奥へ真っ直ぐ刺さる。
今までの自分なら、きっと諦めていた。
仕方ないって。
また一人に戻るだけだって。
でも。
もう嫌だった。
愛されるだけじゃなくて。
自分も、自分の意思で選びたい。
欲しいなら、自分から掴みに行きたい。
せっかく見つけたのに。
“自分らしくいられる場所”を。
湊はゆっくり立ち上がる。
涙を拭う。
「……ジョージ、どこ行ったか知ってる?」
祖母が、にやりと笑った。
「海のほうにいたのを見たってよ」
その瞬間。
湊はサンダルを掴み、離れを飛び出していた。
◇
夜の海風が、頬を叩く。
湊は暗い道を走った。
サンダルが何度も脱げそうになる。
息が苦しい。
胸が痛い。
でも止まれなかった。
頭の中には、ジョージの顔ばかり浮かぶ。
“好きだ”
“絶対、一人にしない”
“ちゃんと見てる”
だったら。
勝手に終わらせるな。
◇
施設の裏手を抜ける。
閉園後のナイトプールは、静まり返っていた。
昼間の喧騒が嘘みたいだ。
ライトアップだけが水面を照らしている。
その向こう。
浜辺に、一人の影が見えた。
高い背中。
風に揺れる茶色の髪。
「……ジョージ!」
叫んだ瞬間、その背中が止まる。
ゆっくり振り返いたジョージは、ひどい顔をしていた。
まるで、ずっと苦しんでいたみたいな顔。
「……なんで来た」
掠れた声。
湊は荒い息のまま近づく。
「なんで勝手に終わらせるんだよ……!」
涙がまた滲む。
「俺、離れたいなんて言ってない!」
ジョージの表情が揺れる。
「でも、お前は——」
「俺のためとか勝手に決めんな!」
夜の浜辺へ声が響いた。
波が砕ける音。
潮風。
「守るとか、傷つけたくないとか、そんなの……!」
息が苦しい。
でも止まれない。
「一番傷つくの、ジョージがいなくなることだよ……!」
その瞬間。
ジョージが目を閉じた。
痛みに耐えるみたいに。
「……湊」
震えている。
「俺、お前の人生壊したくない」
「壊れてない!」
即答だった。
湊は涙を拭いながら、ジョージを睨む。
「ジョージがいたから、初めて自分でいたいって思えたんだよ!」
ジョージが息を止める。
「俺、ずっと平気なふりしてた」
「寂しくても、どうせ離れてくからって諦めてた」
胸の奥が熱い。
「でもジョージといると、ちゃんと笑えた」
「無理しなくてよかった」
「一人じゃなくていいって思えた」
夜風が吹く。
「だから今言う」
涙声のまま。
でも、逃げずに。
「寂しい」
「離れたくない」
「俺は、ジョージが好きだ」
沈黙。
次の瞬間。
ジョージが、ぐしゃりと顔を歪めた。
「……っ、くそ」
低く掠れた声。
「そんな顔で言うな」
一歩で距離を詰められる。
気づけば、強く抱き締められていた。
熱い腕。
震える呼吸。
ジョージの身体も、少し震えている。
「……俺だって離れたくねぇよ」
耳元へ落ちる、本音。
「頭おかしくなるくらい好きだ」
抱き締める力が強くなる。
「でも、お前を巻き込みたくなかった」
湊はジョージの服をぎゅっと掴んだ。
「巻き込まれてる」
「最初からずっと」
その瞬間。
ジョージが、泣きそうに笑った。
「……ほんと、敵わない」
額が触れる。
近い。
熱い。
そしてジョージは、苦しそうに息を吐きながら囁いた。
「もう一回、ちゃんと言う」
真っ直ぐな目。
「好きだ、湊」
波が静かに寄せては返す。
最初は孤独を感じていた海辺が。
今は、二人が“逃げない”と決めた場所になっていた。




