第八話 夏の終わりが近づいて
今日は、朝から地獄だった。
「湊ー!! 追加の浮き輪持ってって!」
「パラソル返却並んでるよ!」
「お兄さん写真——!」
「今無理です!!」
花火大会当日。
《ブルーコースト》周辺は、朝から人で溢れ返っていた。
観光客。
カップル。
浴衣姿の高校生。
普段の倍以上いる。
しかも今年は、ナイトプールの特別営業まで重なっていた。
施設全体が、巨大な夏祭りみたいになっている。
「……死ぬ」
湊は汗だくのまま、倉庫の壁へ寄りかかった。
昼過ぎなのに、もう体力が限界だった。
その時。
「飲め」
ひやり、と冷たい缶が頬へ当てられる。
「うわっ」
振り返ると、ジョージだった。
黒いTシャツにカーゴパンツ。
ラフな格好なのに、やっぱり目立つ。
しかも今日は、人が多いせいで余計に視線を集めていた。
「ありがと……」
スポーツドリンクを受け取る。
冷たさが気持ちいい。
ジョージは湊の顔を見るなり、眉を寄せた。
「顔赤い」
「暑いから」
「休憩した?」
「してない」
「だと思った」
ため息混じりの声。
なのに、その目は優しい。
以前なら、こんなふうに気遣われるだけで落ち着かなかった。
でも今は違う。
ジョージが隣にいることが、もう当たり前みたいになり始めていた。
その時。
「すみませーん!」
女の子二人組が、ジョージへ駆け寄ってくる。
「写真お願いしていいですか!?」
「めちゃくちゃかっこいい!」
ジョージは一瞬だけ困った顔をする。
「悪い、仕事中」
「えー絶対モテるでしょ!」
「彼女いるんですか!?」
無邪気な質問。
でも。
その瞬間、湊の胸が妙にざわついた。
彼女。
ジョージは少しだけ視線を動かす。
ほんの一瞬湊を見る。
その目が、熱い。
「……いる、みたいなもん」
「えー!!」
女の子たちが盛り上がる。
でも湊は固まった。
心臓がうるさい。
“みたいなもん”。
それ、どういう意味だ。
するとジョージが、何でもない顔で湊の頭を軽く小突いた。
「ぼーっとすんな。倒れるぞ」
自然な距離感。
まるで、自分だけに向ける態度みたいで。
胸の奥がじわっと熱くなる。
女の子たちは「なにあれー!」と騒ぎながら去っていった。
その背中を見送りながら、湊は小さく息を吐く。
「……ずる」
「何が」
「そういうとこ」
ジョージが少し笑う。
「今さら?」
低い声が心地よく響く。
その響きだけで、心臓が跳ねる。
◇
夕方。
空がオレンジ色へ変わり始める。
花火大会の時間が近づき、周囲はさらに騒がしくなっていた。
「湊、そっち終わったら上がっていいよ」
祖母が言う。
「え」
「今日はジョージくんいるし」
にやにやしている。
絶対わかってる。
「……ばあちゃんさぁ」
「夏なんて、一瞬だからねぇ」
その言葉に、湊は少しだけ黙った。
夏の終わり。
そんな言葉が、最近やけに胸へ引っかかる。
楽しいほど、終わるのが怖くなる。
でも今はまだ考えたくなかった。
湊は片づけを急ぎながら、ちらりと海のほうを見る。
夕暮れの浜辺。
そこへ、ジョージが立っていた。
人混みの中でもすぐわかる。
目が合うとジョージが、小さく手を上げた。
その瞬間。
湊の胸が、苦しいくらい大きく鳴った。
“会いたい”
たった数時間離れていただけなのに、そう思ってしまう。
もうかなり、手遅れだった。
◇
空が、ゆっくり夜へ変わっていく。
海辺には人が溢れていた。
屋台の灯り。
焼きそばの匂い。
浴衣姿のカップル。
遠くから聞こえる笑い声。
夏の全部が詰め込まれたみたいな夜だった。
「……人多すぎ」
湊はジョージの隣で小さく呟く。
仕事を終えたあと、二人は少し離れた浜辺まで来ていた。
ここなら、人混みも少しだけ落ち着いている。
「迷子になるなよ」
ジョージが低く笑う。
「子ども扱いすんな」
言い返した瞬間。
ぐい、と腕を引かれた。
「っ」
そのまま自然に、ジョージの隣へ寄せられる。
「はぐれる」
低い声が近くで響く。
近い。
肩が触れる距離。
周囲は暗いのに、そこだけ熱を持ったみたいだった。
「……ジョージ」
「ん?」
「距離近い」
「嫌?」
聞き方がずるい。
湊は少し黙ってから、小さく首を振った。
するとジョージが、どうしようもなく嬉しそうに笑う。
その顔を見た瞬間。
湊は胸の奥がきゅっと熱くなる。
ああ。
この人、自分といるだけでこんな顔するんだ。
そう思ったら、たまらなくなった。
その時。
――ドォン!!
一発目の花火が夜空へ上がった。
歓声が広がる。
色とりどりの光が海へ落ちる。
「……綺麗」
思わず呟く。
すると隣から視線を感じた。
振り返る。
ジョージが、花火じゃなく湊を見ていた。
「……なに」
照れ隠しみたいに言うと、ジョージが静かに目を細める。
「いや」
低く甘い声。
「お前のほうが綺麗だなって」
「っ……!」
心臓が跳ね上がる。
「そ、そういうの普通に言うなって!」
「本当のことだから」
また花火が上がる。
青。
金。
白。
夜空いっぱいに光が広がる。
その光の中で、ジョージはそっと湊の手を握った。
指先が絡む。
熱い。
周囲の喧騒が遠くなる。
ジョージの体温だけが、はっきりわかる。
「湊」
名前を呼ばれる。
低くて、優しい声。
「好きだ」
胸が苦しい。
真っ直ぐすぎて、逃げられない。
湊は唇を噛んだ。
もう、わかっていた。
ジョージといると嬉しい。
触れられると安心する。
離れるのが嫌だ。
夏が終わるのが怖いと思ってしまうくらい。
この時間が、大切になっていた。
「……俺も」
やっと絞り出した声。
「ジョージといるの、好き」
その瞬間。
ジョージの目が、揺れた。
まるでずっと堪えていたものが、限界を超えたみたいに。
「……やばい」
掠れた声。
「今すぐ抱き締めたい」
「っ……!」
顔が熱い。
でも逃げたくなかった。
むしろもっと近くへ来てほしいと思ってしまった。
ジョージはそっと湊の頬へ触れる。
大きな手。
優しい熱。
「キスしていい?」
花火の音。
歓声。
波の音。
なのに、その声だけがはっきり聞こえた。
怖くない。
むしろしてほしい、と思ってしまった。
小さく頷く。
次の瞬間。
ジョージの唇が、そっと重なった。
熱い。
柔らかい。
一瞬だけのキス。
なのに頭が真っ白になる。
花火の光が、閉じた瞼を赤く染めた。
離れたあとも、唇が熱かった。
ジョージは苦しそうに息を吐きながら、額を寄せてくる。
「……好きすぎる」
その声が、あまりにも本気で。
湊は泣きそうになるくらい、幸せだった。
夏の終わりが近づいている。
それなのに今だけは、終わる気がしなかった。




