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第79話 託された銀の鍵

 銀鍵同盟に残された時間は、たった一分。

 仲間と別れるには、あまりにも短い。


 謝るにも、泣くにも、言葉を交わすにも、何もかもが足りない。

 それでも、戦場はそれ以上を許してくれなかった。


 遠くで撤退の号令が響き続けている。

 そして、さらに奥から迫る魔族軍の咆哮も聴こえる。


 エリシアはレスターの傍に膝をついたまま、両手を握りしめていた。


「レスターさん……」


 エリシアの声が震える。


「ごめん、なさい……」


 涙がぽろぽろと落ちる。


「わたくしが、もっと上手く魔力を使えていれば……もっと正しく治療できていれば……」


 声が崩れた。


「助けられたかもしれませんのに……!」


 レスターは、かすかに目を動かした。

 エリシアの方を見ようとしているが、その視線はもう定まっていない。


 それでも、彼は左手をわずかに動かした。

 首元を探るように、震える指が動く。


 ヴァニラが慌ててその手を支えた。


「レスターくん……?」


 レスターの指先が、首から下げていた小さなものに触れる。


 ――銀の鍵。

 銀鍵同盟の名を象徴する、小さな鍵だった。


 レスターは震える左手で、それを外そうとする。

 力が入らず、指が滑る。


 ヴァニラが泣きながら手を貸し、ようやく銀の鍵が首元から外れた。


 レスターはそれを、エリシアへ差し出した。


「ぼくら、は……」


 声は途切れ途切れだった。


「銀鍵、同盟……だか、ら……」


 エリシアの目が大きく見開かれる。


 その意味を、彼女はすぐに理解した。

 自分も銀鍵同盟の一員だと。

 レスターは、最後までそう言ってくれているのだ。


 エリシアは両手で、血に濡れた銀の鍵を受け取った。


 指先が震え、涙が止まらない。


「……はい」


 彼女は鍵を胸に抱きしめた。


「はい……わたくしは、銀鍵同盟の回復役(ヒーラー)ですわ……!」


 次に、ゼストが前へ出た。

 彼はレスターの横へ膝をつく。


 何を言えばいいのか分からなかった。


 謝罪なら、いくらでもある。


 助けられなかったこと。

 間に合わなかったこと。

 置いていくこと。


 全部、言葉にしたところで足りない。

 だから、ゼストは違う言葉を選んだ。


「レスター」


 声は掠れていた。


「レスターは、俺の弱さに一番最初に寄り添ってくれた」


 レスターの瞳が、かすかにゼストへ向く。


「俺が元No.1だとか、元Sランクだとか、そんなこと関係なく……お前は、俺を見てくれた」


 ゼストは血に濡れた手で、レスターの左肩に触れる。


 喉が詰まる。

 それでも続けた。


「俺は……未来永劫、銀鍵同盟のリーダーはレスターだと思ってる」


 ゼストは奥歯を噛み締めた。


 レスターの唇が、ほんの少しだけ動いた。


「ゼス、ト……」


 レスターはかすれた息の中で、必死に言葉を紡ぐ。


「じぶん、を……」


 呼吸が乱れる。


「ゆるして、あげ、て……」


 ゼストの目が揺れた。


 こんな時にまで。

 自分が消えかけている時にまで。

 ゼストのことを案じている。


「おう……頑張ってみるわ」


 次に、カレンが近づいた。

 彼女は膝をつくなり、深く頭を下げた。


「ごめん」


 声が震えている。


「ごめん、レスター……全部、私のせいだ」


 涙が泥に落ちる。


「こうなった最初の原因は、私が身勝手に前に出たのを、レスターが庇ってくれたから……」


 言葉が続かない。

 カレンは拳を握りしめる。


「ごめん……ごめんなさい……!」


 レスターはゆっくりと左手を動かした。

 カレンの手に触れる。


 力はほとんどない。

 それでも、確かに触れた。


「やさし……くて……」


 かすれた息。


「つよくて……」


 カレンの目から、涙が溢れる。


「ぼくの……あこがれ、だった……」

「やめてよ……」


 カレンは首を振った。


「そんなこと言わないでよ……私、そんな立派じゃない……!」


 その笑みは、いつもの穏やかなレスターのものだった。


 カレンは唇を噛み、彼の左手を握った。


「絶対、忘れない」


 声を震わせながら言う。


「あなたがそう言ってくれたこと、絶対に忘れないから……!」


 最後に、ヴァニラがレスターの身体を抱きしめた。


 右腕を失い、血に濡れた身体。

 触れれば壊れてしまいそうなほど弱い呼吸。


 それでも、ヴァニラは離れられなかった。


「やっぱり嫌だよ……」


 泣きじゃくる声。


「置いていきたくない……レスターくんを、こんなところに置いていきたくないよ……!」


 レスターは、ヴァニラを見る。


 焦点の合わない瞳で、それでも彼女を探す。


「ヴァニ、ラ……」

「ここにいるよ」


 ヴァニラはすぐに答えた。


「私、ここにいるよ……!」


 レスターの左手が、わずかに上がる。

 震える指先で、彼はヴァニラの涙を拭おうとした。


 ほとんど力の入らないその手を、ヴァニラは両手で包み込んだ。

 そして、自分の頬へ寄せる。


「レスターくん……」

「かなしま……ないで……」


 ヴァニラの顔がくしゃりと歪む。


「そんなの無理だよ……」


 涙が止まらない。


「悲しいよ……苦しいよ……だって、レスターくんが……!」


 レスターは、彼女の頬に触れたまま、かすれた声で続けた。


「きみを……」


 息が詰まる。


「うしなわずに……すんで……」


 レスターは、ゆっくりと言った。


「良かった……」


 ヴァニラは息を呑んだ。


 自分が救われたことを、彼は喜んでいる。

 自分が生きていることを、最後に良かったと言っている。


 それが、どうしようもなくレスターらしくて。

 残酷なほど優しくて。


 ヴァニラは泣きながら笑った。


「ありがとう……」


 声は震えていた。


「ありがとう、レスターくん……」


 彼女はレスターの手を頬に押し当てたまま、はっきりと言った。


「――大好きだよ。これまでも、これからも、ずっと愛してる」


 レスターは、微笑んだ。


 その時、荷車を引く馬に乗った兵士が叫んだ。


「時間がありません!」


 彼の顔にも、苦しさが滲んでいた。


「まもなく敵が来ます! 出発しないと、全員間に合いません!」


 ゼストは目を閉じた。


 カレンはヴァニラの肩へ手を伸ばす。


「ヴァニラ……」

「嫌……」

「行かなきゃ」


 ヴァニラはレスターにしがみつく。


 カレンの目にも涙が浮かぶ。

 それでも、彼女はヴァニラを抱きしめるようにして引き離した。


「離して! カレンちゃん、離してよ!」

「ごめん……ごめんね、ヴァニラ……!」


 ゼストは拳を握る。

 そして、カレンを手伝ってヴァニラを荷車へ乗せた。


 エリシアも乗り込み、最後にゼストが荷車へ上がった。

 誰も、レスターから目を離せなかった。


 兵士が手綱を握る。


「出発します!」


 馬が嘶いた。

 次の瞬間、荷車が大きく揺れ、走り出す。


 燃える基地。

 血に濡れた地面。

 倒れたオーガの屍。


 そして、その中に取り残されたレスターの姿が、少しずつ遠ざかっていく。


「レスターくん!」


 ヴァニラが荷車から身を乗り出した。


「やっぱり受け入れられないよ!」

「危ない!」


 カレンが必死にヴァニラの身体を押さえる。


「離して! 離してよぉ!」


 ヴァニラの悲痛な叫びが、大地に響いた。


 それでも、荷車は止まらない。止まれない。

 馬は全力で駆け、夕闇の中を撤退路へ向かって走る。


 うつむくゼストは膝の上で拳を握りしめ、血が滲むほど爪を食い込ませている。


 顔を上げれば、戻ってしまう気がした。

 すべてを捨てて、レスターの元へ駆け出してしまう気がした。

 だから、下を向いているしかなかった。


 エリシアは、血に濡れた銀の鍵を両手で握りしめていた。

 レスターの温度が、まだ掌に残っている。


 戦場に仲間を置き去りにした銀鍵同盟は、沈む太陽を背に敗走した。

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