第78話 懇願する少年少女
もう、時間がなかった。
撤退の号令が、基地のあちこちで反響している。
「急げ!」
「後続が来るぞ!」
「負傷者を先に出せ!」
生き残った勇者と辺境軍の兵士たちが、荷車へ負傷者を乗せ、あるいは肩を貸しながら、次々と後退を始めていた。
その背後からは、魔族軍の咆哮が近づいてくる。
その中で、レスターはかろうじて意識を繋いでいた。
瞼は重く、視界はほとんど霞んでいる。
耳に届く声も遠い。
けれど、ヴァニラが泣いていることだけは分かった。
ゼストが動けずにいることも。
カレンが歯を食いしばっていることも。
エリシアが、自分を助けられないことを責めていることも。
分かってしまった。
だから、レスターは残された力を振り絞る。
「はや、く……」
声は、掠れていた。
それでも、普段の彼とは違う、強い響きがあった。
「行け……!」
言い切った直後、レスターは激しく咳き込んだ。
「がはっ……!」
口元から血が溢れる。
「レスターくん!」
ヴァニラが悲鳴のように叫び、彼の身体へしがみついた。
「もう喋らないで! お願いだから!」
レスターはそれ以上、声を出せなかった。
ただ、浅く息をするだけで、胸が苦しそうに震えている。
ゼストはその光景を見ていた。
歯が砕けそうなほど噛み締める。
置いていけるわけがない。
見捨てられるわけがない。
でも、レスター本人が置いていけと言っている。
ゼストは拳を握りしめた。
血と泥で濡れた指が、震える。
喉の奥から、絞り出すように声が出た。
「……分かった」
ヴァニラが顔を上げる。
ゼストはドミニクを見た。
「アンタの言う通りにする」
「ゼストくん!?」
ヴァニラの声が裏返った。
「どうして! どうしてそんなこと言うの!?」
カレンが、震えるヴァニラの肩を抱きしめる。
「ヴァニラ……」
「離して!」
ヴァニラはカレンを突き飛ばした。
そして、レスターの身体へ覆いかぶさるようにしがみつく。
「嫌だ! 絶対に嫌! 置いていかない! 私、レスターくんを置いていかない!」
その叫びを聞きながら、ゼストは目を閉じた。
胸の中で何かが引き裂かれていく。
それでも、彼はもう一度目を開けた。
「でも……」
声が震えた。
「最後に、一つだけ」
ゼストはドミニクへ向き直る。
怒鳴らなかった。
詰め寄りもしなかった。
ただ、血に濡れた顔で、できる限り冷静に言った。
「俺たちに一分だけ時間をください」
ドミニクは沈黙した。
撤退の号令。
迫る魔族軍。
崩壊した基地。
そのすべてを見た上で、彼は短く答えた。
「いいだろう」
ゼストは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
ドミニクは一度だけレスターを見た。
そして、ゼストたちへ向き直る。
「私からも一つ、いいかな」
ゼストは少しだけ眉を寄せた。
ドミニクは、燃える基地を見渡した。
「今回は敗け戦になってしまった」
その声は、低く、静かだった。
「だが、みなの尽力で敵の軍勢を大幅に削り、敵陣地と補給路を破壊することにも成功した」
ゼストは黙って聞いていた。
カレンも、エリシアも、ヴァニラも、何も言わない。
「おかげで、ルカリスへの侵攻はかなり遅延させられたはずだ」
ドミニクの槍の穂先から、血が落ちた。
「これは明確な成果だ」
敗北、撤退、取り残される命。
その中で、それでも成果と呼ばなければならないものがある。
そうしなければ、この場で死んだ者たちの意味まで消えてしまう。
ドミニクは続けた。
「私や、そこの彼は、おそらく死ぬ」
「……」
「だが、それは大きな問題ではない」
彼の声は、やはり揺れなかった。
「死んだ王の槍と同じく、私の役割を果たすだけだ」
ゼストは、ふと理解した。
なぜ、殿を務めるのがドミニクしかいないのか。
それは彼を除いた彼らは、もう戻ってこないからだ。
そして、その極秘の作戦を命令したのは、彼自身。
ゼストは掠れた声で尋ねた。
「何で……」
言葉が喉に引っかかる。
「何で俺たちに話したんだ?」
ドミニクは少しだけ黙った。
フルフェイスの奥の表情は、やはり見えない。
「さあな」
短い答えだった。
「死ぬ前に、何かを伝えたくなったのかもしれない」
その言い方は淡々としていたが、どこか人間らしかった。
初めて、ゼストにはそう感じられた。
ドミニクは槍を握り直す。
「仲間との時間を邪魔してしまって済まなかった」
そう言って、わずかに頭を下げた。
「これで失礼するよ」
彼は背を向けた。
銀の鎧が、夕闇と炎の中で赤く光る。
その背中は、迷わず戦場の奥へ向かっていた。
迫り来る魔族軍の方へ。
ドミニクの足音が遠ざかっていく。
そして、銀鍵同盟に残されたのは、一分。
たった一分だけだった。




