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第77話 下された撤退命令

「レスターくん!」


 ヴァニラが泣きながら叫ぶ。


「聞こえる!? 私の声、聞こえる!?」

「……ん……」

「意識が……戻った」


 カレンの声が震える。


 エリシアは両手で口元を押さえた。

 涙がまた溢れる。


「ゼストさま……」


 彼女は、心の底から絞り出すように言った。


「ありがとうございます」


 ゼストはレスターの胸から手を離し、荒い息を吐いた。


 だが、安心はできない。


 腹部は塞がっていない。

 右腕も接合できていない。

 呼吸が戻っただけ。


 それでも。

 ゼストは血に濡れた手で、レスターの肩に触れた。


「よく戻ってきた、レスター」


 レスターは微かに目を動かし、ゼストを見た。


 その時だった。

 戦場の奥から、鋭い号令が響いた。


「――全軍、撤退!」


 拡声魔法に乗った声が、崩れた前線基地全体へ広がる。


「繰り返す! 全軍、撤退せよ!」


 一瞬、誰もが動きを止めた。

 だが次の瞬間、基地のあちこちから怒号が上がる。


「撤退だ!」

「動ける者から下がれ!」

「負傷者を荷車へ!」


 前線から、中衛から、そして基地から。


 生き残った勇者と辺境軍の兵士たちが、次々と後退を始めていた。

 押し寄せる魔族軍の影が、遠くに見える。


 中衛を抜けたオーガたち。

 基地へ雪崩れ込んだ奇襲部隊の残り。

 さらにその奥から、まだ無数の敵がこちらへ迫ってきていた。


 もう、ここは維持できない。

 誰の目にも明らかだった。


 エリシアは青ざめた顔で周囲を見る。


「そんな……」


 他の回復役(ヒーラー)を待つことはできない。

 レスターの腹部を完全に治す時間も、右腕を接合する時間も、この場には残されていなかった。


 カレンが歯を食いしばる。


「レスターを荷車に乗せるわよ。ペイジまで運べば回復役(ヒーラー)がいる。何とか街まで生きたまま連れていければ――」

「ダメだ」


 低い声が、その言葉を断ち切った。

 振り向くと、そこには銀の鎧の男が立っていた。


 勇者連合の指揮官、ドミニク・ブール。

 その銀の鎧は赤に染まっていた。

 槍の穂先からも、まだ血が滴っている。


 少し離れた場所では、巨大なオーガ将軍(ジェネラル)が倒れていた。

 首元を深く貫かれ、胸を裂かれ、完全に絶命している。


 ドミニクが、単独で倒したのだ。


 だが、その勝利に酔う気配は一切ない。

 彼はただ、撤退する兵士たちと負傷者の流れを見ていた。


 ゼストが立ち上がる。


「どういう意味ですか?」

「そのままの意味だ。荷車に彼を載せる余裕はない」


 ドミニクは淡々と言った。


「重傷者は多い。生存可能性の高い者を優先する」

「レスターくんは生きてる」


 ヴァニラが震える声で言う。


 ドミニクはレスターを見た。


 腹部から滲む血に、失われた右腕。

 青白い顔と途切れそうな呼吸。


 その状態を一目で確認し、短く告げる。


「ペイジまで持たない」

「まだ分からないでしょ!」


 カレンが叫ぶ。


「エリシアが途中まで治した! ゼストが呼吸も戻した! 荷車に乗せて、どうにか持たせれば――」

「その荷車に、確実に助かる可能性のある者を二人載せられる」


 ドミニクの声は揺れない。


「死人を載せる余裕はない」


 その言葉に、ヴァニラの顔が歪んだ。


「死人じゃない!」


 涙を浮かべたまま、彼女は叫ぶ。


「レスターくんはまだ死んでいない!」


 ゼストの拳が震える。


「レスターを置いていけって、俺たちに言ってるのか?」

「そうだ」


 即答だった。

 あまりにも冷静で、あまりにも残酷だった。


「だったら、俺が一人でここを耐えてみせる」


 ゼストはドミニクへ詰め寄る。


「その空いた一人分、レスターに荷車のスペースを回せ」

「却下する」

「なんでだよ!」

「死人と、君のような貴重な戦力はトレードオフできない」


 ゼストの目が見開かれる。


 次の瞬間、彼はドミニクの胸元へ手を伸ばしていた。


「ふざけるな」


 声が低くなる。


「現状の実力だけで生き残らせるかどうかを判断するなら、アンタが残れよ」


 カレンが息を呑む。


 ヴァニラも、エリシアも、言葉を失う。


 ゼストは構わず続けた。


「元Sランクの俺より、アンタの方が絶対弱いだろ」


 その場の空気が張り詰めた。

 周囲で撤退準備をしていた兵士たちも、一瞬だけ動きを止める。


 ドミニクは、ゼストを見下ろすようにしていた。

 フルフェイスの奥の表情は見えない。


 だが、その声は変わらなかった。


「もちろん、そのつもりだ」

「……何?」

殿(しんがり)は私が務める」


 淡々とした言葉だった。


「撤退する全軍がペイジへ向かう時間を稼ぐ。私が最後尾に残り、追撃を止める」


 ゼストの手から力が抜けた。


 ドミニクは、ただ指揮官として全体の生存を優先している。

 そして、その判断の先で誰よりも危険な場所に立つ覚悟を、すでに決めていた。


 誰よりも先に死ぬかもしれない場所へ、自分が残るつもりでいる。

 だからこそ、彼の判断は揺れない。


 ゼストは言葉を失った。


 怒りをぶつける先が、なくなった。


 ヴァニラはレスターの左手を握りしめる。


「お願いです……」


 声が震える。


「お願いだから……レスターくんを……」


 ドミニクは一瞬だけ沈黙した。

 だが、答えは変わらなかった。


「撤退開始まで、残された時間はわずかだ」


 彼は周囲へ視線を向ける。


「歩ける者は歩け。担げる者は担げ。荷車は、助かる可能性の高い重傷者へ回せ」

「そんな……!」


 ヴァニラの涙がまた溢れる。


 カレンは紅椿(ベニツバキ)を握りしめ、唇を噛む。


 エリシアはレスターの腹部に手を添えたまま、何もできずに震えていた。


 その時、かすれた声がした。


「ぼく、は……」


 全員がレスターを見る。


 彼の瞼が、薄く開いていた。

 呼吸は浅い。

 声もほとんど音になっていない。


 それでも、レスターは必死に言葉を紡ごうとしていた。


 ヴァニラが顔を近づける。


「喋らないで! お願いだから、今は――」

「ぼくは……いい」


 弱々しい声だった。

 だが、その言葉だけははっきりと聞こえた。


 ヴァニラの顔が凍る。


「何、言ってるの……?」


 レスターは微かに息を吸う。

 それだけで、胸が苦しそうに震えた。


「おいて、いって……くれ」

「嫌だ」


 ヴァニラは即座に首を振った。


「嫌だよ。絶対に嫌」


 レスターは、ほんの少しだけ目を動かした。

 泣きじゃくるヴァニラを見ている。


 ヴァニラはレスターの左手を両手で握った。


「そんなこと言わないでよぉ……ねえ、お願いだから……」


 ゼストは歯を食いしばった。


 カレンは目を赤くしながら、俯いている。


 エリシアの涙が、レスターの血で濡れた地面へ落ちた。


 撤退の号令は、なおも響いている。


「撤退せよ!」

「急げ!」

「敵が来るぞ!」


 基地の外側では、魔族軍の咆哮が迫っている。

 残された時間は、もうほとんどない。


 レスターは弱く、しかし確かに、もう一度呟いた。


「おいて……いって……」


 その言葉は、銀鍵同盟の誰一人として受け入れられなかった。

 けれど戦場は、彼らの答えを待ってはくれなかった。

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