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第76話 まだ死なせない

 エリシアは、必死に思考していた。


 目の前には、腹を深く貫かれたレスターがいる。

 右腕は肩口から先が失われ、少し離れた地面に転がっている。


 今、最優先すべきは腹部だった。


 背中へ抜けるほど深く刺し貫かれた傷。

 そこから流れ出る血を止めなければ、レスターはすぐに死んでしまう。


 腹部の回復には時間がかかる。

 裂けた肉を塞ぎ、内側まで治さなければならない。


 だから、どうしても右腕は後回しになる。

 完全な止血を優先するだけなら、右腕の切断面に深癒光(ディープヒール)をかけてしまえばいい。

 しかしその場合、斬られた右腕との接合という選択肢が消えてしまう。


 レスターの今後の生活や、勇者としてのキャリア。

 それを思えば、右腕を諦める判断は、あまりに重すぎた。


 だからエリシアは、腹部へ命癒光(ライフヒール)を注ぎ込みながら、右腕はヴァニラに止血だけを頼んでいた。


 切断面はそのままに失血を抑え、接合の可能性を残す。

 その細い綱の上で、エリシアは必死に魔力を操っていた。


「……背中側は、塞がりましたわ」


 エリシアは息を荒げながら呟く。


 レスターの背中側の傷口は、どうにか閉じ始めている。

 これで血の流れは少しだけ抑えられる。


 まだ間に合う。

 まだ、間に合わせられる。


「次は、内臓を――」


 その瞬間だった。

 手のひらに灯っていた金色の癒光が、ふっと消えた。


「え……」


 隣のヴァニラが呆然と声を漏らす。


 エリシアも、自分の手を見た。

 何が起きたのか、一瞬理解できなかった。


「嘘……」


 もう一度、魔力を込める。


 いつもと同じように。

 何度も何度も繰り返してきたように。

 腹部へ手をかざし、癒しの光を呼び出そうとする。


「――命癒光(ライフヒール)!」


 何も起きない。


「……違います」


 エリシアの声が震えた。


「そんなはずない……!」


 もう一度。

 さらにもう一度。


「――命癒光(ライフヒール)!」


 光は灯らない。

 ほんのわずかな癒光(ヒール)すら、指先から出てこない。


 身体の奥にあるはずの魔力が、底を突いていた。


 天幕で百人を超える負傷者を癒し、休む間もなく重傷者を治療し続けた。

 ここまで来るために走り、戦場で仲間を救おうとして、さらに致命傷のレスターへ上級回復を注ぎ込んだ。


 呆れるほどに、当然の結果だった。

 それでも、今だけは認められなかった。


 エリシアは涙を浮かべながら、レスターの腹部へ手をかざす。


「お願い……お願いですから……!」


 周囲を警戒していたゼストとカレンも、回復魔法が止まったことに気づいて駆け寄ってきた。


「エリシア?」


 カレンの顔が強張る。


「なんで、止まってるの……?」


 エリシアは唇を震わせた。


 言いたくなかった。

 言えば、全てが終わってしまう気がした。


 けれど、現実は変わらない。


「ごめん……なさいっ」


 エリシアの目から涙が零れた。


「わたくしには……もう、魔力が……」


 その場の空気が凍りついた。


 ――魔力切れ。


 残酷な現実が、そこにはあった。


「冗談、だよね……?」


 カレンがエリシアの肩を掴む。


「ねえ、エリシア。お願い」


 彼女の声が震える。


「レスターを生かせるのは、アンタだけなの!」

「カレンさん……」

「ねえ!」


 カレンはエリシアの肩を揺さぶった。


「お願いだから! レスターを……レスターを助けてよ!」

「わたくしだって……!」


 エリシアの声も崩れた。


「わたくしだって、助けたいですわ!」


 涙が頬を伝う。


「でも……出ないんです……魔力が、もう……!」


 カレンの手から力が抜ける。


 その横で、ヴァニラがレスターの顔を見ていた。

 泣き腫らした目で、彼の口元を。

 胸の動きを。


 そして、青ざめた顔で叫んだ。


「二人とも黙って!」


 カレンとエリシアが振り向く。


 ヴァニラはレスターの顔に耳を近づけていた。


「レスターくんの呼吸が……」


 ほんのわずかに上下していたはずの胸が、動かない。

 空気を求めるかすかな音もない。


 ヴァニラの顔から、血の気が引いた。


「ゼストくん!」


 ゼストは呆然としていた。

 目の前で起きていることを、ただ見ている。


「ゼストくん!」


 ヴァニラが叫ぶ。

 それでも返事はない。


 ヴァニラは涙を流しながら立ち上がり、ゼストの頬を叩いた。

 乾いた音が響く。


「ゼストくんってば!」


 その痛みで、ゼストの視線がようやく動いた。


「ヴァニ、ラ……」


 かすれた声。


 ヴァニラは泣きながら、ゼストの胸元を掴んだ。


「ほかの回復役(ヒーラー)が来るまで、癒光(ヒール)でも何でもいいから繋ぎ留めて……!」


 彼女の声は震えていた。


「お願いだから協力してよ!」


 その言葉が、ゼストの中に落ちた。


 そうだ。

 何をしている。

 こうやって死んでいく仲間を見て、何もできずにいた自分が嫌だったんじゃないのか。


 ピピを失ったあの時。

 ただ泣くことしかできなかった自分が、許せなかったんじゃないのか。


 もう二度と、あんな思いはしたくない。

 もう二度と、誰も死なせたくない。


 それなのに、自分はまた、止まっていた。


「……どいてくれ」


 ゼストの声が低くなる。


 ヴァニラが一瞬だけ目を見開く。


 ゼストはレスターの横へ膝をつき、胸に手を当てる。


 鼓動は感じない。


 だが、まだ完全に終わったわけじゃない。

 終わらせない。


 ゼストは両手を重ね、レスターの胸部へ置いた。

 そして、一定のリズムで強く押し始めた。


「ちょっと、何やってんの!?」


 カレンが叫ぶ。


「ヴァニラは癒光(ヒール)してって――」

「――昔、カガミから教わった」


 ゼストは手を止めない。


「魔法を使わない少数民族に伝わる蘇生法だ」

「蘇生法……?」


 エリシアが涙に濡れた顔で呟く。


「魔力は不要だ」


 ゼストは一定のリズムで胸を圧し続ける。


「心臓が止まってるんだったら、こっちの方が有効……だと思う」

「そんなものが……」


 エリシアは息を呑んだ。


 ゼストは数十回ほど胸を押すと、レスターの顎を上げた。

 そして、迷わず自分の口をレスターの口へ当て、息を吹き込んだ。


「……っ!」


 ヴァニラが目を見開く。


 カレンも、エリシアも、一瞬だけ言葉を失った。


 だが、今は驚いている場合ではない。

 それが何か意味のある行為なら、止める理由などなかった。


 ゼストは再び胸を押す。


 一定のリズムで。

 一度も止めずに。

 息を吹き込み、また押す。


「死なせない……」


 ゼストの声が震える。


「死なせてたまるか!」


 胸を押すたびに、レスターの身体が揺れる。


 ヴァニラは両手を合わせるようにして、レスターの顔を見つめていた。


「お願い……戻ってきて……」


 ゼストはまた息を吹き込む。

 そして胸を押した、その時。


「がはっ……!」


 レスターの身体が大きく跳ねた。

 口元から血が溢れる。


 ヴァニラが息を呑む。


「レスターくん!」


 レスターの胸が、わずかに動いた。


 か細い息。

 途切れそうな呼吸。

 そして、閉じかけていた瞼がほんの少しだけ開く。


「みん、な……」


 弱々しいが、それは確かにレスターの声だった。


 命の灯火が、ほんの少しだけ揺り戻された。

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