第68話 後方への影
一方その頃。
後方にある前線基地でも、戦場の音は絶えず響いていた。
治療用天幕の中では、エリシアが金色の錫杖を手に、負傷者たちの回復支援を続けている。
「――次!」
年配の回復役が叫ぶ。
「腹部裂傷、出血多量! 上級!」
エリシアはすぐに膝をつき、錫杖をかざした。
「――命癒光!」
淡い光が負傷者の傷を包み込む。
裂けた腹部が塞がり、止まらなかった血が止まった。
周囲から安堵の息が漏れるが、エリシアに休む暇はない。
「次、右腕骨折、意識あり! 中級で十分!」
「――深癒光!」
光がまた灯る。
エリシアの額には汗が浮かんでいた。
呼吸も少し荒い。
それでも、彼女は足を止めない。
ようやく、自分の役目を果たせているのだ。
少しでも多くの人を救いたい。
その天幕の端で、レスターは腰を下ろしていた。
左足の傷はエリシアの回復魔法で塞がっている。
しばらく休んだことで、レスターの顔色は明らかに良くなっていた。
呼吸も落ち着き、足に力も戻ってきている。
レスターはゆっくりと立ち上がった。
「……よし」
その動きに、ヴァニラが驚いて顔を上げる。
「レスターくん?」
「もう大丈夫」
レスターは軽く足を踏みしめる。
「このままここにいるわけにはいかない。僕は前線に戻る」
「でも――」
ヴァニラが言いかける。
レスターはその言葉を遮るように、まっすぐ彼女を見る。
「ヴァニラ、一緒に来てほしい」
その言葉に、ヴァニラは一瞬だけ目を見開いた。
レスターは続ける。
「ゼストたちが戦ってる。僕一人じゃ力不足でも、ヴァニラがいてくれれば戦える」
少しだけ、照れたように笑う。
「だから、ついてきてほしい」
その言葉に、ヴァニラは力強く頷いた。
「当たり前だよ。一緒に行こ!」
立ち上がり、杖を握る。
「でも、無理しないって約束してよね?」
「うん。約束する」
レスターは頷いた。
「エリシアにも声を掛けよう」
「そうだね……!」
再び戦線に戻る決意を固めた二人……その時だった。
前線とは逆方向。
基地の外側から、低い地鳴りのような音が響いた。
「……何?」
ヴァニラが顔を上げる。
次の瞬間、基地外周の柵が、轟音とともに砕け散った。
治療用天幕の外で、兵士たちが一斉に振り返った。
「敵襲!」
「後方からだ!」
「オーガだ! オーガが来たぞ!」
その声に、天幕内が凍りついた。
本来なら安全であるはずの後方。
そこに、巨体の群れが現れていた。
戦線の外側を大きく回り込んだ、オーガの奇襲部隊。その数、およそ一千。
その先頭に立つのは、通常のオーガとは比較にならない巨体だった。
オーガ将軍。
セレネ・ハイポリオンが温存していた、唯一の将軍クラスだった。
「そんな……」
ヴァニラが息を呑む。
オーガたちは基地内部へなだれ込んできた。
補給用の木箱が踏み砕かれ、荷馬車が横転する。
防衛用の柵がまとめて薙ぎ払われる。
逃げ遅れた兵士が、棍棒に弾き飛ばされた。
治療用天幕の近くまで、悲鳴が迫る。
「動ける者は武器を取れ!」
「守備隊、前に出ろ!」
後方に残っていた守備隊が抵抗する。
辺境軍の兵士たちが槍を構え、基地に残っていた勇者たちも武器を抜いた。
守備隊は必死に隊列を組み、連携してオーガの軍勢を何とか塞き止める。
しかし、オーガ将軍が戦斧を振るうと、それだけで盾列がまとめて吹き飛んだ。
「止めろ!」
「無理だ、押し返せない!」
「治療天幕に近づけるな!」
叫び声が飛び交う。
一体止めても、次が来る。
そのさらに奥では、オーガ将軍が歩いていた。
止められる者がいない。
誰も、あの巨体の前に立ち続けられない。
基地全体が、恐怖で揺れ始めていた。
「――怯むな!」
司令部の天幕の布が、大きく開いた。
そこから、全身を銀の鎧に包んだフルフェイスの男が出てくる。
Aランク2位、王の槍のリーダーであり、勇者連合指揮官のドミニク・ブール。
彼は槍を手に、前へ出る。
恐怖に飲まれかけていた兵士たちが、ドミニクを見る。
「オーガ将軍は私が相手をする!」
魔法で拡声された声が、基地全体に響き渡る。
「動ける者は死に物狂いで戦え!」
槍を構えるドミニクから波及し、基地の空気が変わった。
勇者たちが前へ出る。
辺境軍の兵士たちが、もう一度隊列を組み直す。
「司令が出るぞ!」
「持ちこたえろ!」
「負傷者を奥へ運べ!」
ドミニクはゆっくりと歩き出した。
銀の鎧が、戦場の火に照らされる。
オーガ将軍がドミニクを見下ろす。
次の瞬間、戦斧が振り下ろされた。
ドミニクは戦斧を受け流し、槍を返す。
その穂先が、オーガ将軍の腕を浅く裂いた。
基地全体に、わずかな希望が走る。
「――戦え!」
ドミニクの声が再び響く。
「ここが正念場だ!」
☆ ☆ ☆
その頃。
魔族側後方の本陣では、セレネ・ハイポリオンが静かに紅茶を口元へ運んでいた。
遠くの戦場から届く轟音。
幹部たちが各局面で戦っている報告。
そして、戦線の外側を迂回させたオーガ将軍の奇襲部隊。
すべては、予定通りに進んでいるはずだった。
「そろそろ辿り着いたかしら」
セレネは穏やかに呟く。
後方基地を叩けば、人間側は前線を支えられなくなる。
治療、補給、指揮。
それらの要を砕けば、どれほど勇者たちが前で奮戦しても、戦線は崩れる。
彼女はそう読んでいた。
その時、天幕の外から悲鳴が聞こえた。
オーガの声でも、人間の声でもない。
堕天使族の悲鳴だった。
「……」
セレネはカップを置いた。
側近の堕天使族が慌てて入ってくる。
「セレネ様!」
「何事です」
「敵襲です! 人間側の精鋭が、本陣に――!」
その言葉が終わる前に、遠くからまた悲鳴が上がった。
セレネは静かに立ち上がり、天幕の外へ出た。
そこに広がっていたのは、混乱する魔族本陣だった。
整然と並んでいた堕天使族の兵たちが、各所で倒れている。
黒い天幕の間を、数人の人間が駆け抜けていた。
その連携は、ただの勇者パーティのものではない。
ドミニクを除いた、Aランク2位パーティ――王の槍のメンバーたち。
彼らが、魔族側本陣へ奇襲を仕掛けていた。
セレネはその光景を見て、わずかに目を細める。
「人間側の指揮官も、私と同じことを考えていたわけね……」
戦場の勝敗は、前線だけで決まるわけではない。
その読みは、人間側も同じだったということだ。
セレネの口元に、静かな笑みが浮かぶ。
「ふふっ」
それは楽しげで、同時に冷たい笑みだった。
「不愉快だわ」
片翼が、ゆっくりと揺れる。
セレネは騒ぎの中心へ向かって歩き出した。
周囲の部下たちが慌てて道を開ける。
黒い天幕の間を進む彼女の足取りは、少しも乱れていない。
人間側の後方基地を襲うオーガ将軍。
魔族側の本陣を襲う王の槍。
戦場の影は、互いの後方へ伸びていた。
そして、その影の先で。
指揮官たちの読み合いが、ついに牙を剥き始めていた。




