第64話 癒光は止められない
金色の錫杖を手にする彼女は、息を切らしながらもまっすぐ立っていた。
「――エリシア!?」
カレンが叫ぶ。
「エリシアちゃん!」
ヴァニラの目に涙が浮かぶ。
エリシアは二人へ微笑んだ。
「遅くなってしまい、申し訳ありません」
そのまま、彼女はレスターのもとへ歩み寄る。
彼の左足を見ると、エリシアは膝をついて錫杖をかざした。
「――深癒光」
裂けていた筋肉と皮膚が塞がり、血が止まる。
痛みがすっと引いていく。
完全に疲労まで消えるわけではないが、戦闘不能に近かった足は、再び立てる状態まで戻った。
レスターはゆっくりと足を動かす。
「ありがとう、エリシア。助かったよ」
「いいえ……」
エリシアは少しだけ目を伏せた。
「初めから共に戦えれば良かったのですが……」
「それでも、ちゃんと来てくれたから」
ヴァニラが涙を拭いながら言う。
「うん。本当に、来てくれてよかった」
エリシアは柔らかく微笑んだ。
「ヴァニラさんも、よく頑張りましたわね」
そのやり取りに、レスターが小さく笑う。
ほんの少しだけ、銀鍵同盟の空気が戻った。
しかし、最前線ではまだ戦いが続いている。
ここで立ち止まっている暇はない。
カレンは自分の頬を軽く叩き、紅椿の柄に手を置いた。
「レスターは、ヴァニラとエリシアに任せる」
「カレンさん?」
「私は前線へ戻るわ」
カレンの目には、強い決意が宿っていた。
エリシアは頷く。
「行ってくださいませ。ここが落ち着いたら、わたくしも追い付きます」
ヴァニラも頷く。
「ゼストくんにも、エリシアちゃんが来たって伝えてあげて」
「分かった」
レスターは少しだけ立ち上がろうとしたが、エリシアに止められた。
「流した血までは回復できません。もうしばらく安静にしてください」
「……分かった」
カレンは三人を一度見た。
欠けていた五人目が戻ってきた。
それだけで、胸の奥に少しだけ力が戻る。
「行ってくる」
カレンはそう言って、治療用天幕を飛び出した。
残されたエリシアは、すぐに周囲へ視線を向ける。
天幕の中は、まだ混乱の中にあった。
彼女の陣命癒光によって、大勢の重傷者が一気に救われたが、それで終わりではない。
次々に新たな負傷者が運び込まれてくる。
救いを求める声が、天幕のあちこちから上がっていた。
「こっちをお願いします!」
「次はこの人を!」
「出血が止まりません!」
「回復役はまだか!」
その声に、エリシアの身体が動いた。
「参りますわ」
彼女はすぐに一人の負傷兵のもとへ膝をつく。
「――命癒光」
淡い光が負傷兵の腹部を包む。
裂けた肉が閉じ、止まらなかった血が止まった。
兵士の顔に、わずかに血色が戻る。
「た、助かった……?」
「まだ起き上がらないでくださいませ。失った血までは戻っていませんわ」
そう言うと、エリシアはもう次の負傷者へ移った。
肩口から胸にかけて斬られた勇者。
「――命癒光」
足を潰され、意識を失いかけている辺境軍人。
「――命癒光」
背中を裂かれた若い弓兵。
「――命癒光」
金色に近い空色の光が、天幕の中を何度も瞬いた。
軍の回復担当たちは、思わず手を止めそうになった。
「速い……」
「上級回復を、あの速度で……?」
「あの子、何者だ……?」
「ネルヴァ会長の娘だって聞いたぞ」
「会長の娘が、なんでここに……」
驚きと困惑の声が上がる。
ヴァニラはレスターのそばに付きながら、エリシアの背中を見つめていた。
「エリシアちゃん……すごい」
その声には、尊敬と不安が混じっていた。
彼女が来てから、天幕内の空気は一気に変わった。
絶望的だった負傷者たちの表情に、希望が戻っている。
だが、それと同時に、ヴァニラには少しだけ違和感があった。
エリシアがどの負傷者にも、ほとんど全力に近い魔法を使っているように見えたからだ。
数日前に隊商の護衛を治療したとき、ゼストは言っていた。
どのレベルの回復魔法を使うかは、状況を見て適切に判断しろと。
けれど今のエリシアは、その使い分けができていなかった。
無理もない。
丸一日眠らされ、起きてすぐに前線へ駆けつけたのだから。
それに、目の前には数え切れないほどの負傷者がいる。
冷静に魔力配分を考えろという方が、酷だった。
「――命癒光」
また一人、深い傷が塞がる。
エリシアの額に汗が浮かんだ。
呼吸も少しずつ荒くなっている。
それでも、彼女は止まらずに次の担架へ向かう。
「お嬢さん」
その時、横から年配の回復役が声をかけた。
軍に所属する回復担当だろう。
白髪交じりの髪を後ろで結び、袖を血で汚している。
エリシアは振り返る。
「何でしょうか」
「あんたの回復魔法は見事だ。正直、ここにいる誰よりも強力だ」
「でしたら、なおさら――」
「だからこそ言うんだよ」
年配の回復役は、まっすぐエリシアを見た。
「全員を全力で救おうとすれば、最後に救いたい一人を救えなくなるよ」
エリシアの動きが、わずかに止まった。
「重傷者には命癒光を使えばいい。けど、中程度の傷なら深癒光で十分な場合もある。止血だけでいいなら、応急処置と癒光で繋げる場面もある」
その言葉は、ゼストに指摘されたことと同じだった。
救いたい命が多い戦場では、適切な判断が必要になる。
エリシアは分かっている。
分かっているはずだった。
けれど、目の前に苦しむ人がいれば、手加減ができない。
自分だけ安全な屋敷に閉じ込められていた時間を思い出す。
その間に、仲間が傷ついていたかもしれない。
誰かが死んでいたかもしれない。
自分は間に合わなかったかもしれない。
その恐怖が、エリシアの胸を締めつけていた。
「大丈夫です……分かっていますわ」
エリシアは錫杖を握り直した。
「分かっている顔じゃないね」
年配の回復役の声は厳しかった。
だが、責めているわけではない。
彼女もまた、戦場で何度も同じことを見てきたのだろう。
優秀な回復役ほど、救えると思った命を見捨てられない。
そして、魔力を尽かして、本当に必要な時に届かなくなる。
「お嬢さん。あんたは大きな力を持ってる。だからこそ、余力は残しときな」
「……」
エリシアは唇を噛んだ。
視界の端で、担架に乗せられた若い兵士が苦しげにうめいている。
隣では、勇者パーティの仲間らしき少女が泣きながら手を握っている。
「やっと……」
エリシアは小さく言った。
「やっと、皆さんのいる戦場に来られたんです」
自分だけ安全な場所に置かれた屈辱、そして父の影。
それらを振り切って、ここまで来た。
「わたくしの役目を果たさせてください」
エリシアの声は震えていた。
けれど、瞳は揺れていなかった。
年配の回復役は、何かを言いかけて、口を閉じた。
止めても、止まらない。
それが分かったのだろう。
「……なら、せめて順番はこっちで決める、いいね?」
「承知しましたわ」
エリシアは錫杖を掲げる。
空色の光が、再び天幕を照らした。
誰かの命をつなぐために。
仲間のいる戦場に、ようやく辿り着いた自分の役目を果たすために。
エリシア・ネルヴァの癒光は、まだ止まらなかった。




