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第63話 空色の癒光、前線へ

「ここは……」


 エリシア・ネルヴァは、ゆっくりと目を開けた。


 最初に視界へ入ったのは、豪華な天蓋だった。

 丁寧に磨かれた木枠と、白く肌触りの良い寝具。

 窓から差し込む淡い朝の光。


 エリシアは上体を起こす。


 窓の外には、朝霧に包まれたペイジの街が見えた。

 温泉街らしく、霧と湯気が混じり合い、白く霞んでいる。


 一見すれば穏やかな朝だったが、エリシアの胸は一瞬で冷えた。


「……眠らされましたのね」


 その時、扉が静かに叩かれた。


「お目覚めですか。エリシア様」


 入ってきたのは、この屋敷の使用人らしき女性だった。

 年配で、落ち着いた所作をしている。

 盆の上には水差しと軽い食事が載せられていた。


 エリシアはすぐに訊いた。


「わたくしは、どのくらい眠っていたのですか?」


 使用人は一瞬だけ目を伏せた。


「丸一日、眠っておられました」

「丸一日……」


 エリシアの顔から血の気が引いた。


 つまり、銀鍵同盟はとっくに前線基地へ到着している。


 ドミニクの作戦通りなら、今日が開戦の日である可能性が高いが、まだ間に合う。

 今から出れば、戦闘中に前線基地へ到着できる可能性は十分にある。


 エリシアは何も言わずに身支度を開始しようとする。

 だが、部屋を見回しても自らの荷物や装備は見当たらなかった。


「わたくしの荷物はどこですの?」

「お預かりしております」

「返してくださいませ」

「できません」


 使用人の声は静かだった。


「銀鍵同盟様が戻られるまで、このお屋敷に軟禁するように言われております」

「軟禁、ですか」


 エリシアはゆっくりとその言葉を繰り返した。


 外から見れば、丁重に保護されているように見えるだろう。

 だが、自由を奪われている時点で、それは牢と同義だった。


「辺境伯様と直接交渉させてください」


 しかし、使用人は首を横に振る。


「交渉の余地はないと、ドミニク様を通じてお伝えさせていただいているはずです。それに、辺境伯様はこのお屋敷にはおられません」

「いいえ、いらっしゃるはずです」


 エリシアは窓の外に広がるペイジの景色を見て言う。


「辺境伯様は、その威信を示すことに抜かりがありません。辺境の危機だというのに、前線に顔を出さないはずがありませんから」


 使用人は表情を変えずに、盆を机に置く。


「お食事を置いておきます。お身体の調子が戻るまでは、無理をなさらずお休みください」

「――お待ちください」


 エリシアの声に、使用人は扉の前で足を止めた。


「伝言を頼みたいのです」


 エリシアは使用人をまっすぐ見た。


「もし軟禁を解いてくださるなら……わたくしは、辺境伯様の方に付きますわ」


 使用人の目が、わずかに揺れた。


 エリシアは続ける。


「たとえ、父と対立したとしても」


 その言葉が政治的に何を意味するか、使用人にも理解できたのだろう。

 だが、彼女は驚きをすぐに抑え込んだ。


「……失礼いたします」


 そう言って、静かに部屋を出ていく。


 エリシアは机の上の食事には手をつけなかった。


 それから、しばらくして。

 扉が再び開いた。


「エリシア様」


 先ほどの使用人が、静かに頭を下げる。


「中庭へお越しください」


 ☆ ☆ ☆


 中庭には、白い石造りの卓と椅子が置かれていた。


 その椅子に、一人の男が座っている。

 その柔らかな物腰の奥には、辺境を統べる者としての重みがあった。


 エイド・マクスウェル辺境伯。

 銀鍵同盟のスポンサーであり、ルカリスを治める者。


 エリシアは彼の前まで進み、丁寧に一礼した。


「お初にお目にかかります。わたくし、エリシア・ネルヴァですわ」

「ふむ」


 エイドはエリシアをじっと見た。


「その瞳を見れば、君が本気であることが分かる」

「でしたら、お話は早いですわ」


 エリシアは顔を上げる。


「わたくしを前線へ向かわせてくださいませ」


 エイドはすぐには答えなかった。


 中庭には朝の冷たい空気が流れている。

 遠くから、ペイジの街のざわめきが聞こえた。


「君の父君は、勇者協会会長だ」

「存じております」

「その娘である君が、父君の意向に反して私の側に付く。それがどういう意味を持つかも?」

「分かっていますわ」


 エリシアは迷わず答えた。


「父は、わたくしを娘として守ろうとしているのかもしれません。あるいは、ネルヴァ家の道具として失いたくないだけかもしれません」


 声に、少しだけ怒りが混じる。


「ですが、わたくしはもう父の所有物ではありません」


 エイドの目がわずかに細くなる。


「わたくしは、銀鍵同盟の回復役(ヒーラー)です。仲間が戦場で傷ついているかもしれない時に、自分だけ安全な部屋に閉じ込められているなど、耐えられませんわ」

「君を前線へ送れば、私は勇者協会会長と正面から対立する可能性がある」

「その代わり、わたくしはマクスウェル辺境伯側につきます」


 エリシアは一歩も退かない。


「勇者協会会長の娘としてではなく、エリシア・ネルヴァ個人として。銀鍵同盟の回復役として。必要であれば、父の命令に従わず、自分の意思で前線へ向かったことを公に証言いたします」


 エイドは静かに彼女を見た。


 エリシア・ネルヴァという存在には、価値がある。

 勇者協会会長の娘。

 上級回復魔法を扱える回復役(ヒーラー)


 そして、父の意向に逆らってまで辺境伯側についた令嬢。

 広告塔としての価値は大きいが、同時に政治的リスクも大きい。


 深い思考の末、エイドはゆっくり息を吐いた。


「書面を用意しよう」


 エリシアの表情が変わる。


「それは……」

「君が自らの意思で前線へ向かうこと。マクスウェル辺境伯は、君の意思を確認した上で移動を許可したにすぎないこと。そして君は、少なくとも今回の戦争において、マクスウェル辺境伯軍および勇者連合の支援に協力すること」


 エイドは使用人へ視線を向ける。


「それを明文化する」

「ありがとうございます!」


 エリシアは深く頭を下げた。


 その後、書面はすぐに用意され、エリシアは迷わず署名した。


 署名を終えた瞬間、彼女は立ち上がる。


「早急にわたくしの荷物と錫杖を返してください。それと可能な限り速い馬と、道中で案内できる者も一人ご用意くださいませ」


 エイドは一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。


「よかろう」


 父の影を振り切り、エリシア・ネルヴァは仲間の下に駆け付けることを許可された。

 空色の髪を揺らしながら、彼女は前線へ向かう準備を始める。


 ☆ ☆ ☆


 前線基地の治療用天幕は、阿鼻叫喚の様相を呈していた。


 レスターはまだ、天幕の端で治療を待っている。


 止血はしているが、傷は深い。

 痛みに耐える彼の横で、ヴァニラは不安そうに手を握っていた。


「次、腹部裂傷!」

「こっちは意識がない!」

「魔力がもう……!」

「軽傷者は外へ! 重傷者を先に!」


 混乱の中、誰もが限界だった。


 その時――天幕の外から、澄んだ魔力が流れ込んできた。


 重く濁っていた天幕内に、淡い光が広がる。

 それはどこか空色を帯びた癒しの光だった。

 大天幕内の一角にいた百人を超える重傷者たちの傷が、同時に癒されていく。


 回復担当の一人が、呆然と光を見上げた。


「これは……陣命癒光(レルム・ライフヒール)!?」


 彼の声が震える。


「いったい誰が……」


 光がゆっくりと収まっていく。

 その直後、天幕の入口から声がした。


「――お待たせいたしましたわ」


 カレンが顔を上げる。

 ヴァニラも振り返る。

 レスターも痛みに耐えながら目を開いた。


 そこに立っていたのは、空色の髪をなびかせる少女だった。

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