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第56話 戦争が終わったら

 前線基地に到着した初日の夜。

 ここにあるのは、低く抑えられた兵士たちの話し声と、風に揺れるテントの音。


 時折、遠くで馬がいななき、見張り台から交代を告げる声が聞こえる。

 柵の向こうには、暗い平原が広がっていた。


 ヴァニラは足元に気をつけながら、厠から戻っていた。

 その途中だった。


「おい」


 低い声がした。


 ヴァニラは足を止める。

 振り返ると、少し離れたところに辺境軍の兵士が立っていた。


 鎧の一部を外し、手には酒瓶を持っている。

 かなり酔っているようだった。


「……何か、用ですか?」


 ヴァニラは警戒しながら答える。


 兵士はふらつく足取りで近づいてきた。


「勇者だろ、お前」

「そうですけど」

「へえ。いいよなぁ、勇者様は」


 声に、明らかな棘があった。


 ヴァニラは少しずつ後ろへ下がる。

 だが、背後には物資用の木箱が積まれていた。


 ――逃げ道が狭い。


「俺はお前ら勇者と違って、志願してきたわけじゃねえ」


 兵士は酒瓶を揺らしながら言った。


「領主様の命令でここに立たされて、明日には魔族に殺されるかもしれねえんだ」


 その声には恐怖が混じっていた。

 怒りも、不満も。

 自分ではどうにもならない場所へ送られた人間の鬱屈が、酒で膨れ上がっている。


「それは……大変だと思います」


 ヴァニラは慎重に言った。


「でも、私たちも――」

「黙れ」


 兵士の目が据わる。


「お前らは自分で来たんだろ。名声だの、報酬だの、ランクだののために」

「違います」

「違わねえよ」


 兵士は近づいてくる。

 酒臭い息が、夜気に混じった。


「俺はな、明日死ぬかもしれねえんだ」

「……」

「だったら、死ぬ前にやることやって死んでやる」


 その言葉の意味を理解した瞬間、ヴァニラの背筋が冷えた。


 兵士が手を伸ばす。


 ヴァニラは身を引こうとしたが、手首を掴まれた。


「っ、離してください!」

「うるせえ」


 兵士は力任せに引く。


 ヴァニラの身体がよろけた。

 杖はないが、手のひらに魔力が集まりかける。


 火炎(フレイム)――いや、もっと強く。

 爆火炎(バースト)でも撃てば、目の前の男を吹き飛ばせる。


 だが、ここは前線基地の中で、すぐ近くにはテントが並んでいる。

 何より、相手は魔族ではない。同じ人間側の軍人だ。


 その一瞬の迷いが、ヴァニラの動きを鈍らせた。


 兵士がさらに距離を詰める。


「いやっ……!」


 ヴァニラが声を上げようとした、その瞬間。


「その手を離せ」


 低い声が横から響いた。


 ヴァニラも、兵士も、同時にそちらを見る。


 暗がりの中に立っていたのは、レスターだった。


 怒鳴っているわけでも、武器を振り上げているわけでもない。

 それでも、レスターの声には、普段の彼からは想像できない凄みがあった。


「その手を、離せ」


 二度目の警告。


 兵士は一瞬たじろいだ。

 だが、すぐに顔を歪める。


「なんだよ、お前……勇者か」

「離せって言っただろ……」

「うるせえ!」


 兵士はヴァニラの手を乱暴に放し、そのままレスターへ殴りかかった。


 だが、レスターは避けずに正面から受け止める。

 片手で、兵士の拳を掴んだ。


「っ……!」


 兵士の顔が歪む。


 レスターの手は、びくともしなかった。

 普段から大盾を扱うその腕を、酔った兵士の拳程度で揺らせるはずもない。


「僕の仲間に」


 レスターの声がさらに低くなる。


「何をしようとした」

「し、知るかよ!」


 兵士は空いた手で殴ろうとする。


 その前に、レスターが一歩踏み込んだ。

 拳が兵士の腹へ入る。


「ぐっ……!」


 レスターは掴んでいた腕を放し、踏み込んだ勢いのまま拳を叩き込んだ。


 兵士の身体が地面を転がる。


 周囲のテントの中から何人かが顔を出したが、レスターは視線を逸らさない。

 倒れた兵士へ、ゆっくり歩み寄る。


「僕の仲間に、二度と近づくな」


 静かな声だった。


 普段のレスターなら、相手がどれほど悪くても、まず事情を聞こうとしたかもしれない。

 また、騒がしくしたことを、周囲に謝罪したかもしれない。


 だが、この場面では一切譲らなかった。


 兵士は地面に座り込んだまま、怯えた目でレスターを見上げる。


「お、俺たちはな、お前らみたいに好きでここに来たんじゃねえんだよ……!」


 兵士は震える声で叫んだ。


「明日死ぬかもしれねえんだ! 誰も守っちゃくれねえ! なのに、お前らだけ綺麗な顔して――」

「だからって」


 レスターは遮った。


「ヴァニラに何をしてもいい理由にはならない」


 兵士は言葉を詰まらせた。

 その後、兵士は言葉にならない悪態を吐き、ふらつきながら走り去っていった。


 レスターは兵士が完全に見えなくなるまで、その背中をしばらく見ていた。


 それから、ようやくヴァニラへ振り返った。

 その瞬間、レスターの表情が一気にいつもの柔らかいものへ戻る。


「あっ……ご、ごめん。怖かったよね。もう大丈夫だから」

「……うん」


 ヴァニラは小さく頷いた。


「ありがとう……あれ?」


 立とうとしたが、足に力が入らなかった。

 膝が震えて、身体がその場に沈みそうになる。


 レスターがすぐに支える。


「大丈夫?」

「ご、ごめん。腰が抜けちゃったみたい……」

「無理しなくていいよ」


 レスターは周囲を一度見回した。


 騒ぎを聞きつけた何人かの兵士や勇者たちがこちらを見ていたが、近づいてくる者はいない。


 問題を大きくしたくない。

 そういう空気も感じられた。


 レスターは少し考えたあと、ヴァニラの前にしゃがむ。


「背負うよ」

「えっ」

「テントまで戻ろう。このまま一人で歩くのは危ないから」

「で、でも……」

「大丈夫」


 レスターは優しく言った。


「僕が運ぶから」


 ヴァニラは少し迷った。

 けれど、脚はまだ震えている。

 それに、今はレスターのそばにいたかった。


「……お願い」

「うん」


 レスターはヴァニラを背負った。


 広い背中。

 安定した腕。


 少し前まで怖くて冷えていた身体が、ゆっくり温かさを取り戻していく。


 レスターは静かに歩き出した。


 基地の夜は、相変わらず重い。

 テントの布が夜風に揺れ、遠くで誰かの低い笑い声が聞こえる。


 ヴァニラはレスターの背中に額を寄せた。


「レスターくん」

「うん?」

「私……」


 言おうとした。


 さっき、助けに来てくれたこと。

 怖かったけれど、レスターが来てくれた瞬間に、心の底から安心したこと。

 あなたのことが好きだと。


 でも、言葉が喉で止まった。


「その……さっき……」

「怖かったよね」

「うん。でも、そうじゃなくて」

「怪我はない?」

「ないよ。レスターくんが来てくれたから」

「よかった」


 レスターは心からほっとしたように言った。


 その声が優しくて、ヴァニラの胸がまた詰まる。


「レスターくん、私……」

「うん?」


 今言わなきゃと、そう思った。


 明日から戦争が始まる。

 何が起きるか分からない。

 伝えられるうちに伝えた方がいい。


 けれど、今この瞬間、自分の言葉でレスターを困らせてしまうのが怖かった。

 戦争前に、余計な重さを背負わせてしまう気がした。


 レスターは、明日から自分たちの前に立つ。

 みんなを守るために。


 今、自分の恋心まで預けていいのだろうか。


「……ありがとう」


 結局、出てきたのはそれだけだった。


 レスターは少しだけ振り返るようにして笑った。


「うん。間に合ってよかった」


 ヴァニラはレスターの背中で、小さく拳を握る。


 戦争が終わったら、ちゃんと伝えよう。

 レスターくんに――あなたのことが好きだって。


 遠くで、軍の鐘が低く鳴った。

 夜の前線基地に、重い音が広がっていく。


 明日から戦争が始まる。

 その事実が、冷たい夜風とともに、ヴァニラの胸へ静かに降りてきた。

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