第53話 魔族側の取引
ゼフィード家領内。
マクスウェル辺境伯領との境界から、およそ五十キロ。
そこに、東フォーン砦はあった。
灰色の岩山を削るように築かれたその砦は、ゼフィード家領東部の要衝である。
かつては人間側との小競り合いに備えるための前線拠点だったが、今は違う。
第三次ルカリス回復遠征。
その第一陣の基地として、東フォーン砦は急速に姿を変えていた。
砦の中庭には、各地から集められた魔族兵が並ぶ。
荷車が行き交い、武器が運び込まれ、保存食や薬品、予備の防具が倉庫へ積まれていく。
空には黒い翼を持つ伝令が飛び、城壁の上ではゼフィード家配下の魔族たちが周囲を監視していた。
その中心に、一人の女がいた。
白銀の髪に褐色の肌。
片翼でありながら、その姿に欠落の印象はない。むしろ、不完全さすら支配下に置いたような均衡があった。
静かに伏せられたその瞳は、父であるアウレリオ・ハイポリオンの持つ傲慢な威圧感とは違い、湖面のような静謐さをたたえている。
ハイポリオン家、継承順位第1位――セレネ・ハイポリオン。
彼女は第三次ルカリス回復遠征第一陣の指揮官である。
「通行と補給の許可、ありがとうございます」
セレネは柔らかく微笑み、向かいの男へ頭を下げた。
その仕草は丁寧だったが、ただ丁寧なだけではない。
相手に礼を尽くしているようでいて、場の主導権は決して渡していない。
「と、とんでもございません」
向かいに立つ男が、慌てたように頭を下げる。
「我々にできることがありましたら、何なりとお申し付けください」
ゼフィード家、継承順位第7位――クラム・ゼフィード。
この東フォーン砦を任されている、ゼフィード家の若い有力者である。
血色の悪い肌に、赤い瞳。
細身の体つきに、整った顔立ち。
種族としては吸血鬼族であり、ゼフィード家の一員として十分な格を持つ男だった。
ただし、目の前のセレネとは立場が違う。
同じ四大魔族の名門とはいえ、彼女はハイポリオン家継承順位第1位。
一方のクラムは、ゼフィード家の中では第7位。
東フォーン砦を任されているとはいえ、セレネと対等に振る舞えるほどの格ではない。
そのためか、クラムの表情にはわずかな緊張が滲んでいた。
セレネはそれを見抜いているのか、いないのか。
穏やかな笑みを崩さない。
「辺境への進軍経路は、ゼフィード家領内を通る形になりますもの。こうして砦をお貸しいただけるのは、大変ありがたいですわ」
「いえ。ルカリス回復は、我ら魔族全体の悲願ですので」
クラムは真面目な顔で答えた。
ルカリス。
人間たちにとっては、マクスウェル辺境伯領の中心都市。
だが、魔族にとっては違う。
旧第二魔王城であり、かつて魔王が初代勇者に討たれた場所。
人間に奪われたまま、長きにわたり返ってこない屈辱の象徴。
失われたものを取り戻す戦い。
それが、第三次ルカリス回復遠征だった。
今回の侵攻経路は、ゼフィード家領内を通る。
しかし、第一陣の実働を担うのはハイポリオン家である。
砦を提供するゼフィード家と、兵を動かすハイポリオン家。
その間で結ばれた取引こそが、数か月前に行われた会談の本質だった。
「ところで」
クラムは少しだけ姿勢を正した。
「オーガ部隊の編成は済んだのでしょうか」
「ええ」
セレネは軽く頷く。
「すでに、いくつかのオーガの部族を編成し、前線に配置しています」
「規模は?」
「総勢八千ほどになります」
「オーガの軍勢八千ですか……」
クラムは思わず息を呑んだ。
「想像以上です」
オーガは、単体でも人間の一般兵にとって脅威となる魔物だ。
その巨体と膂力は、下級の勇者ではまともに受け止められない。
知能は個体差があるが、部隊として運用できれば破壊的な戦力になる。
だが、セレネの表情は満足していなかった。
「しかし、どれも小粒ばかりで」
「小粒……ですか?」
クラムの頬が引きつる。
八千のオーガを小粒と評する感覚に、わずかな温度差を覚えたのだろう。
セレネは静かに続ける。
「将軍クラスは、たった一体しかいませんの」
ため息。
それは本当に残念そうなため息だった。
「不甲斐ないですわね」
「あ、あはは……」
クラムは苦笑いするしかなかった。
オーガ将軍。
それは、通常のオーガはもちろん、族長クラスとも比較にならない上位個体である。
人間側のBランク、場合によってはAランク級の勇者でも苦戦する存在。
それが一体いるだけで、戦場の圧力は大きく変わる。
にもかかわらず、セレネは「たった一体」と言い放った。
その基準の高さを、クラムは改めて思い知らされた。
「もちろん、オーガ部隊だけに頼るつもりはありません」
セレネは窓の外へ視線を向ける。
中庭には、黒い翼を持つ堕天使族の兵たちが整然と並んでいた。
その動きは無駄がなく、規律が行き届いている。
「私たち堕天使族もいますから、第一陣の成功はご心配には及びません」
穏やかな声だが、そこには揺るぎない自信があった。
クラムは深く頷く。
「頼もしい限りです」
「とはいえ、ゼフィード家の皆様にも十分な成果をお渡ししなければなりませんね」
セレネはそこで、少しだけ微笑み方を変えた。
穏やかだが、どこか冷たい笑み。
「作戦成功の暁には、勇者を回収して、ゼフィード家の皆様にお渡しするという約束ですから」
回収――まるで人間である勇者を、資源か素材のように扱う言葉。
その言葉に、クラムの赤い瞳がかすかに揺れた。
ゼフィード家にとって、人間の勇者はただの敵ではない。
血を吸い、記憶を探り、眷属化し、あるいは研究に用いる価値ある獲物でもある。
特に、戦場で名のある勇者を確保できれば、家内での評価にも繋がる。
東フォーン砦の提供と補給協力。
その見返りとして、ハイポリオン家は捕らえた勇者の一部をゼフィード家へ引き渡す。
それが今回の取引だった。
「お心遣い、ありがとうございます」
クラムは丁寧に頭を下げた。
「我が家としても、十分な協力を約束いたします」
「ええ。期待していますわ」
セレネは穏やかに言った。
「ルカリス回復は、我ら四大魔族にとって重要な一歩ですもの」
その言葉に、クラムは再び背筋を伸ばす。
「はい」
会談の間にも、砦の外では準備が進んでいる。
人間側が第三次ルカリス防衛戦争と呼ぶ戦い。
魔族側が第三次ルカリス回復遠征と呼ぶ戦い。
その幕は、すでに上がりかけていた。
セレネは砦の窓から東の空を見る。
「……さて」
セレネは小さく呟いた。
「人間たちは、どこまで耐えられるでしょうね」
その声は静かだった。
だが、東フォーン砦に集う魔族たちの熱は、確実に戦場へ向かって膨れ上がっていた。




