第51話 ピピという相棒
ゼストが十四歳になったばかりの春。
王都ハイデンダルク。
その華やかな大通りから、ほんの少し外れた裏側。
陽の光が届きにくい、湿った路地。
建物の壁は黒ずみ、地面には腐った野菜くずや酒瓶の破片が転がっている。
誰かの怒鳴り声や遠くの喧騒が、あちこちから聞こえてくる場所――スラム。
裏路地の片隅には、大人の男が四人倒れている。
全員、意識はない。
その周囲に立っていたのは、二人の少年だった。
一人は濃紺の髪をした少年――ゼスト・マクシム。
まだ幼さの残る顔立ちだが、目つきは鋭い。
頬は腫れ、唇は切れている。
服は薄汚れ、あちこち破れていた。
もう一人は、栗毛の少年。
ゼストより少し背が高く、口元にはいつも笑みの名残がある。
だが今は、肩で荒く息をしていた。
額から血が流れ、片目の下には青あざができている。
「ハァ……ハァ……やったな、ゼスト」
「今日も……派手にやったな、ピピ」
栗毛の少年――ピピが、荒い息の合間に笑うと、ゼストも息を切らしながら答えた。
相手は大人四人で、スラムで生きているゴロツキだ。
喧嘩慣れしているし、容赦もない。
ゼストもピピも、殴られ、蹴られ、壁に叩きつけられた痕や、刃物をかすめた傷もある。
それでも、最後に立っていたのは二人だった。
「ほら、こいつの懐見ろよ」
ピピが倒れた男の服を探る。
「お、銅貨けっこう持ってる」
「そいつ、さっき金ないって言ってなかったか?」
「スラムの人間の『金ない』を信じるなよ」
「それもそうか」
ゼストも別の男の腰袋を外し、中身を確認する。
銅貨に半端な銀片。
安物の短剣と傷んだ革手袋も回収した。
売れるものは売るし、使えるものは使う。
ゼストとピピは、こうしてスラムのゴロツキを締めては金銭を奪い、持ち物を闇市に売って生活していた。
生まれてから、ずっと。
まともな家はなく、守ってくれる大人もいない。
腹が減れば盗み、襲われれば殴り返す。
奪われる前に奪うのがスラムの理屈だった。
時折、スラムの外へ出ることがあると、向けられるのは白い目だった。
汚いものを見る目。
近づくなと言う目。
ああはなりたくない、という目。
自分たちの毎日が、外の人間から見れば汚く、間違ったものなのだと、嫌でも思い知らされた。
それでも、戻る場所はスラムしかなかった。
身寄りもなく、金もなく、毎日が命がけ。
綺麗な道を歩く人間たちの正しさは、ゼストたちには遠すぎた。
二人は慣れた手つきで倒れた男たちから最後の持ち物を剥ぎ取っていく。
すると、ピピがふと手を止めた。
「なあ、ゼスト」
「あ?」
「俺たち――職業勇者にならないか」
唐突だった。
ゼストは思わず顔を上げる。
「……勇者?」
ピピは倒れた男から奪った短剣をくるくると回した。
「スラムの外で生きる方法って、たぶんそれくらいしかねえだろ」
「急にどうしたんだよ」
「急じゃねえよ。ずっと考えてた」
ピピは少しだけ真面目な顔になった。
「俺たち、このままじゃいつか死ぬぞ」
ゼストは何も言えなかった。
そんなことは分かっている。
昨日まで強かった奴が、今日には路地裏で冷たくなっている。
さっきまで笑っていた奴が、次の瞬間には食い物を奪おうとして刺されている。
スラムでは珍しくもない。
「このまま大人になっても、やることは変わらねえ」
ピピは続ける。
「誰かを殴って、奪って、奪われて、いつかもっと強い奴に殺される。それだけだ」
「……」
「でも、職業勇者なら違う」
ピピの目が、少しだけ輝いた。
「魔物を倒せば金になる。SPってやつを稼げばランクが上がる。ランクが上がれば、もっとでかい仕事もできる。堂々と剣を持って、堂々と金を稼げる」
「俺たちみたいなのがなれるのか?」
「なれるだろ」
ピピは笑った。
「俺たち、喧嘩なら強いし」
「喧嘩と魔物退治は違うんじゃねえの」
「似たようなもんだろ。襲ってくる奴をぶっ倒す。ほら、同じだ」
ピピはゼストへ手を伸ばした。
「なあ、ゼスト。俺ら二人で、この最低な場所から這い上がろうぜ」
ゼストはピピの血のついた手を見た。
それは自分と同じように、スラムで生きるために汚れてきた手だった。
ゼストには、職業勇者というものがよく分からなかった。
ランクも、SPも、協会も、何も知らない。
ただ、ピピが本気で言っていることだけは分かった。
だから、半ば流されるように頷いた。
「いいよ」
ピピの目が丸くなる。
「本当に?」
「ああ」
ゼストは肩をすくめる。
「俺はピピについていくから」
ピピは一瞬だけ黙って、それからにっと笑った。
「そう言ってくれると思ってたぜ、相棒」
ピピは拳を突き出し、ゼストもそれに拳を合わせた。
血と泥に汚れた拳――それが、二人の決意の形だった。
それからの二人は、すべての時間を勇者業に充てた。
普通のFランク勇者には、別の生活がある。
昼は安定した労働をし、休日や週に一度だけ任務を受ける。
少しずつSPを稼ぎ、無理のない範囲でランクを上げる。
それが一般的だった。
だが、ゼストとピピには、守るべきまともな生活などなかった。
家も、職も、家族もない。
だからこそ、任務にすべてを賭けられた。
朝から晩まで依頼を探し、稼げる任務なら何でも受ける。
怪我をしても、次の日にはまた出る。
身体が痛くても、腹が減っていても、休まない。
そんな無茶なやり方だったからこそ、二人の実力は短期間で劇的に伸びていった。
「ゼスト、右!」
「分かってる!」
「そっちのゴブリン、逃がすな!」
「ピピ、前出すぎだ!」
「前に出なきゃ稼げねえだろ!」
ピピは戦闘において、いつもゼストより先にいた。
特に勘が鋭く、敵の逃げ道や勝負を仕掛けるべき瞬間を、理屈より先に嗅ぎ取る少年だった。
その気性もあってか無茶もしたし、危ない橋も渡った。
だが、ただの無謀ではなかった。
彼は、自分たちがスラムで培ってきた戦闘スキルを信じていた。
そして、何よりもゼストの才能を信じていた。
「お前は絶対強くなる」
任務帰り、何度もピピはそう言った。
「俺が保証する」
「根拠は?」
「勘」
そう言って、ピピは笑った。
自分たちは変われる。
ここではない場所へ行ける。
汚い路地裏で死ぬだけの人生では終わらない。
その希望だけが、二人を走らせていた。
そして、シーズンに遅れて参加したにもかかわらず、わずか八か月足らずでDランクまで昇格したのだった。
同時に、『異常な速度でSPを積み上げていくスラム出身の二人組がいるらしい』と、ゼストとピピの名前は少しずつ王都でも知られるようになっていった。
☆ ☆ ☆
「すごい……」
レスターは素直に呟いた。
「本当に、ものすごいスピードで、二人は駆け上がっていったんだね」
「ああ」
ゼストは湯面を見つめたまま答える。
「二度とスラムに戻りたくない……その一心でやってたからな」
その声には、懐かしさだけではないものが混じっていた。
「――だからダメだった」
レスターは眉をひそめる。
「ダメ、だった……?」
ゼストは少しだけ目を伏せた。
温泉の湯気の奥に、別の景色を見ているようだった。
「翌年のシーズン最終月」
ゼストの声が低くなる。
「Cランク昇格がかかった任務で……俺とピピは地獄を見た」
レスターは息を呑んだ。
ゼストの横顔は、先ほどよりもさらに遠く見えた。
湯気の向こうにいるのは、今のCランク勇者ゼスト・マクシムではない。
あの頃、相棒と一緒にスラムから這い上がろうとしていた少年の影だった。




