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第50話 レスターの不安

 レスターは、湯船の中でぼんやりと天井を見上げていた。


 男湯の湯気は、女湯ほど賑やかではない。

 隣ではゼストが肩まで湯に沈み、気持ちよさそうに息を吐いている。


 ペイジ名物の温泉。

 五日間の移動で凝り固まった身体には、確かに沁みるような気持ちよさがあった。


 だが、レスターの心は完全にはほどけていなかった。


 ――みんな、すごい速さで強くなってる。


 本当にそう思う。

 銀鍵同盟は、信じられない速度で変わってきた。


 少し前まで、自分たちはFランク下位に沈んでいた。

 まともに稼げるSPも少なく、日々の生活費にも困り、戦闘でも連携と呼べるほどのものはほとんどなかった。


 それが今は、Cランク。

 プロ勇者として、第三次ルカリス防衛戦争に参加するところまで来ている。


 もちろん、一番大きいのはゼストの存在だ。


 元Sランク勇者で、戦術、経験、魔法、接近戦、指導力――何を取っても、次元が違う。

 彼が銀鍵同盟に来てくれなければ、今の自分たちは絶対にいなかった。


 さらに、エリシアも加わった。


 勇者協会会長の娘。

 上級回復魔法の命癒光(ライフヒール)まで扱える本職の回復役(ヒーラー)


 道中で隊商の護衛を治療したときの魔法は、見ているだけで分かった。

 光の濃さも、安定感も、傷へ染み込んでいく深さも、ゼストの()()とはまるで違っていた。


 本職の回復役がいるという安心感は、想像以上に大きかった。


 カレンも、どんどん剣士としての才能を開花させている。


 紅椿(ベニツバキ)を手にしてからの伸び方は、特にすごい。

 闘気(ブレイブ)をものにして、火炎(フレイム)まで習得した。

 前へ出る力だけではなく、引くべき場面で引く冷静さも身につけ始めている。


 そして、ヴァニラ。


 レスターは湯面に揺れる自分の顔を見つめながら、少しだけ目を細めた。


 ヴァニラからは、間違いなく才能の片鱗を感じる。

 火属性の大火力に、夏の修行を経て雷属性の速度と制圧力が加わった。

 元々、魔力量は多かったが、苦手としていたコントロール技術も、確実に克服しつつある。


 それだけではない。

 リザードマン隊長(リーダー)との戦いでは、群貫雷撃(レギオン・レイ)で大量スタンを狙う案を出し、雨の中でウェアウルフに追われたときも、馬上から攻撃するという提案をした。


 ヴァニラは、魔法使いとしてだけではなく、状況を見て戦術を考え、仲間に勝ち筋を示す力も着実に備えてきている。


 それに比べて、自分は。


 レスターは湯の中で、自分の手を見た。


 大きな手。

 盾を握るために鍛えた身体。

 前より弱くなったとは思わない。


 毎朝の走り込みも続けた。

 大盾を背負って走ることにも慣れた。

 闘気(ブレイブ)も、少しずつ扱えるようになってきた。


 だが、はっきりとした成長の実感がない。


 カレンのように剣技が鋭くなったわけではない。

 ヴァニラのように新しい属性を身につけたわけでもない。

 エリシアのように圧倒的な専門性があるわけでもない。

 ゼストのように、戦況をたった一人で変えられるわけでもない。


 自分はタンクで、仲間を守ることが役割だ。

 それは分かっている。


 けれど、本当に守り切れるのか。


 もうすぐ、魔族との戦争が始まる。


 カナゼルのような人型魔族と、また戦うかもしれない。

 それより強い相手も当然出てくる。


 そのとき、自分は前に立てるのか。


 ゼストは、レスターには安定感があると言ってくれる。


 それは嬉しい。


 だが最近、自分が盾を構えているだけで、本当に戦況を支えられているのか分からなくなることがあった。


 自分は本当に必要な壁になれているのか。

 ただ大盾を構えているだけではないのか。


 皆の成長速度に、自分だけ置いていかれているのではないか。


「――おーい、レスター」


 不意に声をかけられ、レスターははっとした。


 横を見ると、ゼストがこちらを見ている。


「のぼせたか?」

「えっ? ああ、大丈夫だよ」


 レスターは慌てて笑った。

 そして、思いを振り切るように湯を両手ですくい、ばしゃばしゃと顔にかける。


 温泉の湯が頬を伝う。

 だが、胸の奥の重さは消えなかった。


 ゼストはそんなレスターをしばらく見ていた。

 それから、いつもより少しだけ真面目な声で言う。


「何か悩んでるなら、聞かせてくれ」


 レスターの手が止まる。


「……顔に出てた?」

「ああ、かなり出てた」

「そっか」


 レスターは苦笑した。


 隠すのは、あまり得意ではない。

 それに、ゼスト相手に誤魔化しきれるとも思えなかった。


 レスターは湯船の縁に背を預け、ゆっくり息を吐く。


「少し、緊張してるんだ」

「戦争に?」


 レスターは頷いた。


「もちろん、怖いのはみんな同じだと思う。でも、僕の場合はそれだけじゃなくて」


 言葉を選ぶ。

 だが、結局は正直に話すしかなかった。


「みんなと比べて、自分だけ成長が足りていない気がするんだ」


 ゼストは黙って聞いている。


「カレンはどんどん強くなってる。剣も、判断も、前よりずっと鋭い。ヴァニラもすごい。魔法の幅が増えて、戦術の提案もしてくれる。エリシアも入って、回復役としてすごく頼もしい」


 レスターは自分の両手を見つめた。


「でも、僕は……タンクとして、本当にみんなを守れるのかなって」

「レスター……」

「分かってるんだ。前より成長していないわけじゃないって。闘気(ブレイブ)も少しは使えるようになったし、盾の扱いも良くなってると思う」


 そう言いながらも、声は沈んでいく。


「でも、確信が持てない」


 温泉の湯気が、二人の間をゆっくり流れた。


「カナゼルのとき、僕はヴァニラを庇えた。でも、その後に傷が開いて、動きが鈍った。ゼストが間に合わなかったら、僕たちは死んでいたかもしれない」


 あの時の感覚は、今も残っている。


 左肩を裂かれた痛み。

 気絶したヴァニラを抱え、カナゼルの剣を防ぎ続ける恐怖。

 守りたいのに、身体が追いつかなくなる感覚。


「今回の戦争では、もっと危ない場面があると思う」


 レスターは静かに言う。


「そのとき、僕が崩れたら、みんなが危ない。僕のせいで誰かを失うかもしれない」


 そこで、レスターは少しだけ声を詰まらせた。


「置いていかれるのも怖い。でも、それ以上に――自分のせいで仲間を失うのが怖いんだ」


 言ってしまった。

 胸の奥にあった不安を、言葉にしてしまった。


 レスターは少し情けない気持ちになった。


 タンクなのに。

 みんなを守る役割なのに。

 こんなふうに怖いと言っていいのだろうか。


 ゼストはただ、静かに湯面を見つめていた。


「分かるよ」


 レスターは顔を上げる。


「分かる?」

「ああ」


 ゼストは短く頷く。


「絶対に仲間を失いたくない。自分のせいで誰かが死ぬなんて、考えるだけで吐きそうになる」


 その声は低かった。

 いつもの軽さが、どこにもない。


「俺も同じだ」


 ゼストは自分の手を見る。

 濡れた掌の奥に、何か別のものを見ているようだった。


「もう、失いたくない」


 その一言だけが、レスターの耳に妙に残った。


『もう』


 それは、ただの言い回しではないように聞こえた。


 レスターは少し迷った。

 踏み込んでいいのか分からなかった。


 ゼストは、自分の過去を多く語らない。


 王都のスラム出身であること。

 母親から暴力を受けていたこと。

 生きるために人には言えないようなこともしてきたこと。


 それらを、以前少しだけ聞いた。


 だが、勇者になってからのことは、まだほとんど知らない。


「ゼスト」


 レスターはおそるおそる訊いた。


「今の『もう』って……」


 ゼストはしばらく黙っていた。


 湯気が揺れる。

 遠くで、宿の廊下を歩く誰かの足音がかすかに聞こえた。


 やがてゼストは、ゆっくりと息を吐いた。


「――俺には相棒がいたんだ」


 その声は、温泉の湯気に溶けるように静かだった。

 ゼストは視線を落としたまま、続きの言葉を探している。


 二人の間に、重い沈黙が流れた。

 温泉の湯気の向こうで、レスターにはゼストの横顔がいつになく遠く見えた。

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