第46話 久しぶりの二人きり
移動三日目の夜。
銀鍵同盟の五人は、広大な草原のただ中にぽつんと張られた、遊牧民のテントに身を寄せていた。
ゼストは、寝床を提供してもらう代わりに、夜の見張りを引き受けていた。
草原の夜は、ルカリスの街とはまるで違う。
建物の明かりも、露店の声も、運河を行き交う船の音もない。
あるのは、冷たい風が草を揺らす音と、遠くで鳴く獣の声だけ。
そして、頭上には満天の星空。
空一面に散った星々は、手を伸ばせば届きそうなほど近く見えた。
焚き火の火が小さく爆ぜ、ぱちっと乾いた音がする。
ゼストは火の横に置いた小鍋をちらりと見た。
中では、遊牧民から分けてもらった香草を使ったハーブティーが温められている。
温かい湯気が、冷たい夜気の中へ白くほどけていく。
そのとき、テントの布がかすかに揺れた。
ゼストは視線だけを向けると、中から出てきたのはカレンだった。
普段は高い位置で結っている椿色の髪を、今は下ろしている。
寒さ対策のために厚手の外套を羽織り、首元までしっかり布を巻いていた。
夜風に髪が揺れる。
「眠れないのか」
ゼストが声をかける。
カレンは少しだけ肩をすくめた。
「まあ、そんなところ」
「エリシアの寝言がうるさいとか?」
「それも少しあるわね」
「あるのかよ……」
「『ゼストさまぁ』って小声で言ってたわ」
「怖いな……」
ゼストは真顔で呟いた。
カレンは小さく笑った。
その笑顔は、いつもより少し柔らかい。
ゼストは焚き火のそばに置いていたカップを二つ取り、温めていたハーブティーを注いだ。
ふわりと、草の香りが立ち上る。
ゼストが軽く手招きすると、カレンは少し迷ったあと、素直に隣へ座った。
「飲むだろ?」
「うん。ありがと」
ゼストはカップを手渡す。
カレンは両手でそれを包み込んだ。
指先にじんわりと熱が伝わる。
「温かい……」
カレンはカップに口をつけながら、少しだけ目を細めた。
温かいハーブティーが喉を通り、身体の芯へ広がっていく。
草原の夜は寒い。
だが、焚き火と温かい飲み物があれば、少しだけその寒さも心地よく感じられた。
しばらく、二人は黙って星空を眺めていた。
焚き火の音。
草の音。
遠くで鳴く夜鳥の声。
やがて、カレンがぽつりと言った。
「前にも、こんなことあったわね」
「ああ」
ゼストはすぐに思い出した。
「最初の遠征の時か」
まだ銀鍵同盟がFランクだった頃に行った、オーク族長討伐遠征。
夜の見張りをしていたゼストのところへ、眠れなかったカレンが出てきた。
「あのときは、焚き火もなかったわね」
「敵が寄ってくるかもしれないからって、お前が嫌がったんだろ」
「……変なところで記憶力いいわね」
カレンはカップの中の湯気を見つめる。
「あのときは、敵に見つからないよう焚き火もなくて、月明かりだけだったから……お互いの顔もこんなにはっきり見えなかったわね」
「そうだな」
ゼストはすぐ横に座るカレンを見る。
下ろした椿色の髪。
少し眠そうな目。
外套に包まれた肩。
あの夜よりも、ずっと近くに見える。
「……ゼスト」
「ん?」
カレンは少し言いづらそうに、カップを両手で握った。
「最近、エリシアとべったりで、あまり話せてなかったから……」
「だから……?」
ゼストはカレンの次の言葉を探るように訊いた。
カレンは眉間に少ししわを寄せた。
自分の中の感情を、どう言葉にすればいいのか分からない。
そんな顔だった。
「う、嬉しい……のかも?」
「いや、そこは確信持ってくれよ」
ゼストは思わず笑った。
カレンはむっとする。
「仕方ないでしょ。私だって、まだよく分かってないんだから」
「何が?」
「こういうの」
カレンは少しだけ視線を逸らす。
「私はエリシアみたいに、好きとか、愛しているとか、そういうの分からないから」
焚き火が小さく爆ぜた。
ゼストはカップを傾け、温かいハーブティーを飲む。
それから、ゆっくり言った。
「エリシアのあれはともかく……カレンのは、恋愛かどうかっていうより、仲間意識が近そうだけどな」
「……どういうこと?」
ゼストは少し考えてから言った。
「俺じゃなくても、レスターやヴァニラと疎遠になったら悲しいだろ?」
「それは……そうね」
「逆に、たまにでも二人でじっくり話せたら嬉しい」
カレンは少し黙る。
ヴァニラと二人で話す時間。
レスターと訓練の合間に話す時間。
銀鍵同盟の家で、食卓を囲む時間。
それらが減ったら、確かに寂しい。
逆に、忙しい中で久しぶりにゆっくり話せたら、きっと嬉しい。
「……そうね」
カレンは小さく頷いた。
「それなら分かる」
「前に、銀鍵同盟は家族みたいなものって言ってくれただろ?」
「言ったわね」
「ああいうことだよ」
ゼストは夜空を見上げる。
「家族でも、仲間でも、ずっと一緒にいるようで案外話せてないことってあるだろ。だから、こうして二人でゆっくり話す時間があると嬉しい……そういう感覚に近いんじゃないか?」
「……わかるような、わからないような」
カレンはそう言いながら、カップを膝の上に置いた。
声に、少し眠気が混じっている。
ゼストは横目で見る。
カレンのまぶたが、少しずつ落ちていた。
「眠いなら戻るか?」
「……まだ……だいじょうぶ」
カレンは小さく返す。
その声も、もうかなり弱い。
日中の移動の連続に、慣れない馬。
戦争前の緊張と寒さ。
相当の疲れが溜まっているのだろう。
ゼストは何も言わず、少しだけ身体の向きを変えた。
自然に、肩を貸せる位置へ。
カレンは一瞬だけそれに気づいたように目を開け、そして遠慮なくゼストの肩に頭を預けた。
椿色の髪が、ゼストの肩にかかる。
焚き火の明かりに照らされて、その髪はより赤みを帯びて見えた。
「重い……?」
「全然」
カレンは小さく笑った。
それから、もう何も言わなくなった。
呼吸がゆっくりになる。
肩にかかる重みが、少し増す。
ほどなくして、カレンはすっかり眠ってしまった。
ゼストは焚き火を見つめながら、静かに息を吐く。
厚着はしている。
焚き火もある。
こうしてくっついていれば、風邪を引くこともないだろう。
そんな言い訳めいた考えを頭に浮かべながら、ゼストは肩を動かさないようにして、夜の草原へ視線を向け続けた。
満天の星空。
広い草原。
遠くへ続く道と、その先に待つ戦争。
不安がないわけではない。
けれど、肩に預けられたこの重みが、どこかゼストを落ち着かせていた。
カレンは静かに寝息を立てている。
心なしか、安心感を覚えている自分に対して、ゼストは苦笑した。
そして、その後もカレンを起こさないまま、夜通し見張りを続けた。
焚き火の明かりと星空の下で。
久しぶりの二人きりの時間は、誰にも邪魔されることなく、静かに夜へ溶けていった。




