第30話 残暑の行軍
「この夏は、カイラブ湖周辺でリザードマンが大量発生していることはご存じですよね?」
第77支部の受付で、メイがそう切り出した。
銀鍵同盟の四人は顔を見合わせ、それぞれ頷く。
「以前、他のDランク勇者の方々も、活性化しているとは言っていましたが……まだ続いてるんですね」
レスターが少し表情を引き締める。
メイは依頼書を一枚取り出した。
「カイラブ湖の西側にて、リザードマン隊長の討伐任務があります」
「隊長クラス……」
ヴァニラが杖を握る手に力を入れた。
レスターは静かに頷く。
「実力を確かめるには申し分ない相手だね」
一か月の修業期間を終えたばかりの銀鍵同盟にとって、いきなりの大規模任務である。
パーティに緊張と、少しの高揚が湧き上がった。
メイはいつもの淡々とした声で続ける。
「オーク族長を倒したみなさんからすれば、格落ち感があるかもしれませんが……」
ゼストはすぐに首を振った。
「オークとリザードマンじゃ、戦い方も厄介さも違いますよね」
「その通りです」
メイは頷く。
「リザードマン隊長の特徴は、その統率力にあります。単体の膂力ならオーク系に劣る場合もありますが、湿地や湖畔での連携、機動力、そして地形利用が厄介です」
メイは依頼書を受付台の上に置いた。
そこには、討伐対象と予想戦力がまとめられている。
「討伐対象、リザードマン隊長一体――240SP」
メイの指が下へ滑る。
「予想規模、リザードマン戦士五体――各120SP。通常リザードマン二十体――各60SP」
ヴァニラが小さく計算するように指を折る。
「えっと……」
「予想獲得SPは、2,040SPです」
メイが先に答えた。
Dランク中位となった銀鍵同盟にとっても、十分に大きな任務だった。
「この夏を乗り越えた、練度も組織性も共に高い群れです」
メイの表情が少しだけ真剣になる。
「数字以上に難易度は高いでしょうが――」
「――やります」
メイが言い終わる前に、カレンが答えた。
その瞳に迷いはない。
ゼストがちらりとカレンを見る。
彼女の腰には紅椿。
この一か月で積み上げたものを、実戦で確かめたい。
その意思が、今のカレンにはあった。
メイは少しだけ目を細める。
「……そう言うと思ってましたよ」
メイは依頼書に判を押す。
たんっと、乾いた音が受付に響いた。
「お気をつけて」
「ちゃんと帰ってきますよ」
ゼストは軽く手を振った。
こうして銀鍵同盟は、一か月ぶりの本格任務へ向かうことになった。
☆ ☆ ☆
残暑の行軍は、思った以上に厳しかった。
朝の涼しいうちに出発したにもかかわらず、太陽が高くなるにつれて、石畳も街道も容赦なく熱を持っていく。
夏の盛りは過ぎたが、暑いものは暑い。
一行は数時間かけて、カイラブ湖の南東岸へ出た。
目の前に広がるのは、巨大な水面――カイラブ湖。
ルカリス西部に広がる大湖であり、周辺の村々の水源であり、漁場であり、そして今はリザードマンとの戦いの場でもある。
湖面はどこまでも広く見えた。
風が吹くたび、細かな波が陽光を反射してきらめく。
「……海みたいだね」
レスターが言う。
「実際、でけえからな」
ゼストは地図を広げる。
「全周約250キロ。対岸までの一番短い直線距離でも12キロはある」
「12キロ……」
ヴァニラが湖を見つめる。
「歩くより楽……だよね?」
「船で座ってるだけならな」
ゼストは湖畔に繋がれた小舟を見る。
五、六人が乗れる程度の小舟。
船頭が手動のオールで操る、簡素だが頑丈そうな船だった。
船頭は日に焼けた中年男性で、太い腕をしている。
湖で生きてきた人間特有の、風と水を読むような目つきだった。
「西岸まで頼めるか?」
ゼストが声をかけると、船頭は四人と荷物を見て、短く答えた。
「銀貨四枚だ。途中で湖面が荒れたら少し時間が延びる」
「分かった」
ゼストは銀貨四枚を渡す。
船頭はそれを受け取り、顎で船を示した。
「乗りな。真ん中に荷物を寄せろ。立ち上がるなよ。ひっくり返る」
「ヴァニラ、聞いたか?」
「えっ私に言ったの?」
「一番立ち上がりそうだからな」
「立たないよぉ!」
四人は小舟に乗り込む。
ゼストとレスターが荷物を中央にまとめ、カレンは紅椿が濡れないように位置を調整した。
ヴァニラは少し緊張した顔で座り、杖を膝の上に置く。
船頭がオールを水面に入れた。
ぎい、と木が軋む音。
小舟が岸を離れる。
ゆっくりと、しかし確実に、湖の上へ進み始めた。
最初のうちは、岸も近かったが、しばらく進むと、周囲は水ばかりになった。
右も左も、前も後ろも、きらめく湖面。
空は高く、太陽は容赦なく照りつける。
四人はそれぞれ頭に布をかぶせ、直射日光を避けていた。
「つまり、初日はほぼ移動で終わるってことね……」
カレンが布の下から呟く。
「そうなるな」
ゼストは水筒を口に運ぶ。
「最低でも三時間は湖面の上だ。西岸に着いたら、近くの村で宿を取って、明日から本格的に動くぞ」
「船の上で三時間かぁ」
ヴァニラは湖面を覗き込みかけ、船頭に睨まれて慌てて姿勢を戻した。
「覗くな。落ちる」
「ご、ごめんなさい」
ヴァニラが杖を抱きしめる。
「まあ、今のところ気配はない」
ゼストが周囲を見ながら言う。
「船頭さん、この辺りでも出るのか?」
「たまにな」
船頭はオールを動かしながら答える。
「ただ、最近増えてるのは西側だ。向こうはとりわけ湿地が多いからな。奴らが隠れやすい」
「なるほど」
レスターが真剣に頷く。
「なら、明日は足場に気をつけないとね」
「それもあるし、隊長がいる群れなら水際からの奇襲もありえる」
ゼストは言う。
「こっちが陸にいるから安全、とは思わない方がいい」
カレンは紅椿の柄に手を置く。
「分かってる」
その声には、静かな気合いがあった。
ゼストは横目でそれを見る。
「カレン」
「なによ」
「試しにちょっと素振りとかするなよ」
「……私を何だと思ってるの?」
レスターとヴァニラが笑う。
船頭だけが、表情を変えずにオールを動かしていた。
湖の上の時間は、思った以上に長かった。
風が吹けば少し涼しい。
だが、止まると暑い。
水面からの照り返しもある。
布で頭を覆っていても、じわじわと体力を奪われる。
ヴァニラは途中で何度か「船って座ってるだけなのに疲れるね……」と呟いた。
そして、太陽が西へ傾き始めた頃。
「見えてきたぞ」
船頭の声に、四人が顔を上げる。
遠くない距離に、岸が見えた。
葦の群れ。低い木々。湿地帯。
そして、その奥に小さな村らしき建物がいくつか。
ようやく、カイラブ湖の西側へ辿り着いたのだ。
「長かったね……」
ヴァニラが心底ほっとした声を出す。
小舟は静かに岸へ近づき、簡素な桟橋へ着いた。
船頭が船を固定する。
四人は荷物を持って慎重に降りた。
ゼストは船頭に礼を言い、周囲を見回す。
すでに夕暮れ時。
西側の岸は、東側よりも湿った空気が濃い。
葦が高く伸び、ところどころ水たまりのような湿地が広がっている。
虫の声と、水鳥の鳴き声が聞こえた。
遠くには、小さな村が見える。
今日はそこで宿を取る予定だった。
「よし、村へ向かうぞ」
ゼストが言う。
「なんとか暗くなる前に着きたいね」
「賛成」
レスターの言葉に、カレンが頷く。
一行は湖畔から村へ向かって歩き始めた。
足元は少しぬかるんでいる。
レスターが先頭に立ち、歩きやすい場所を選びながら進む。
任務前とはいえ、ここはすでにリザードマンが活性化している地域だ。
油断はできない。
村まであと少し。
木々の間から、民家の屋根が見え始めた。
そのときだった。
「――いやあああああっ!」
子供の叫び声が、夕暮れの湿地に響いた。
四人の足が止まる。
次の瞬間、ゼストが鋭く言った。
「行くぞ!」
返事を待つまでもなく、悲鳴のする方に駆け出した。




