第三章:白の沈黙、黒の領分
蛇のような目をした男は、母のスナック『リリィ』のカウンターで、不釣り合いなほど静かに水割りを飲んでいた。
僕が店に入った瞬間、男の視線が僕を捉えた。あの夜の駐車場と同じ、じっとりとした、逃げ場のない視線だ。
「……おう、小僧。叔父貴の名前、勝手に使ったらしいな」
男が低く笑う。氷がグラスに当たる乾いた音が、静かな店内に響いた。母は奥で別の客の相手をしていて気づいていない。心臓がツェッペリンのバスドラムのように早鐘を打つ。僕はポケットの中で、無意識にセリカの鍵を握りしめた。
その時だ。店のドアがカランと鳴り、場違いなほど清涼な空気が流れ込んできた。
「おや、こんなところで何をしているんだい? 蛇君」
声の主は、平岸の喫茶店のマスターだった。
彼はいつものようにオフ・ホワイトのジャケットを完璧に着こなし、まるで日曜日の午後の散歩でもしているような足取りで、僕と男の間に割って入った。
「マ、マスター……なんでここに」
「小宮さんに聞いたんだ。この近くに、美味しい水割りを出す店があるってね」
マスターは男の隣に腰を下ろし、僕に目配せをした。
男の顔が、目に見えて強張っていく。あの傲慢だった肩の力が、霧が晴れるように抜けていくのがわかった。
「この子はね、僕の店の大事な常連なんだ。君たちの理屈でどうこうしていい素材じゃないんだよ。……わかるね?」
マスターの声はどこまでも穏やかだった。しかし、その言葉の裏には、抗えない威圧感が潜んでいた。男は一言も発さず、酒を飲み干すと、逃げるように店を出て行った。
嵐が去った後のような静寂の中で、マスターは僕に向き直った。
「名前を借りるのは、いつかその代償を払う覚悟がある時だけにするんだ。……君にはまだ、その覚悟は早い」
彼はそう言って、僕にだけわかるように少しだけ微笑んだ。
けれど、その微笑みの裏側に、僕は見たこともない「黒い淵」を見た気がした。彼が養子に入った組織の影が、白いシャツの隙間から一瞬だけ覗いたのだ。
助かった。確かに助かったのだが、僕の胸には、叔父の名前を出した時以上の重苦しい「借り」が残った。
平岸へ戻る帰り道、僕は地下鉄の車窓に映る自分の顔を見た。
18歳の自分は、まだ誰かの影の下でしか、このススキノの夜を歩けないのだ。




