第二章:眠らない街の出前持ち(デリバリー・ボーイ)
ススキノの夜は、巨大な深海魚の胃袋のようだった。
母の店を手伝う傍ら、僕は当時まだ珍しかった24時間営業の喫茶店でアルバイトを始めた。そこは、真夜中にだけ活動する生き物たちが休息を取るための、都会の中州のような場所だった。
「お兄さん、いい体してるわね。少しこっち座りなさいよ」
明け方4時。真っ赤な口紅をグラスの縁に残したホステスが、僕の腕を掴んで離さない。大人の女が放つ強い香水の匂いと、煙草の煙、そして明け方の疲労が混ざり合った独特の「色気」に、18歳の僕はいつも戸惑っていた。彼女たちが向ける視線は、僕を若者としてではなく、まだ味のついていない「果実」として品定めしているようだった。
「仕事中ですから」
僕はなるべく無表情に、そして簡潔に答える。けれど、彼女たちが去り際に僕の胸ポケットにねじ込む、折られた千円札の熱を、僕は嫌いではなかった。
一方で、この街には別の顔もあった。
朝の6時、店には黒塗りの車から降りてきた男たちが集結する。組の定例会前の朝食代わりだろうか。彼らが注文するのは決まって濃いブラックコーヒーと、厚切りのトーストだ。
僕はあの「叔父の名前」を借りた夜の屈辱を思い出しながら、彼らの前に静かにカップを置く。小説の世界なら、ここで何かが爆発するはずだが、現実はただ、カチャカチャというスプーンの音だけが虚しく響いていた。
「……おい、出前だ。場所は南5条、トルコ『××』。急げよ」
店長に言われ、僕は珈琲を5つ、トレイに乗せて店を出た。
目的地は、いわゆるトルコ風呂。今の世の中で言うソープランドだ。
朝日がビルに反射し、昨日までの汚濁を白日の下に晒そうとしている時間帯。その重厚なドアを開けると、冷房の効いたロビーには、薄いガウンを羽織った女たちが、昨夜の残骸のような顔をして座っていた。
「あら、可愛い子が来たじゃない」
一人の女が、僕のトレイを受け取りながら、わざと指先を僕の手に触れさせた。その指は驚くほど冷たかった。
僕はそこで初めて知った。この華やかなススキノの深層には、僕が背伸びして買っている「パー券」や「ディスコの熱狂」とは別の、逃げ場のない切実な生活が横たわっていることを。
平岸の白い喫茶店に戻り、のりこちゃんの笑顔を見る時、僕は自分がまだ「こちら側」と「あちら側」の境界線で揺れていることを自覚する。
そんなある日、母のスナックに、見覚えのある「蛇のような目」をした男が客として現れた。
あの夜、僕が叔父の名前を出して追い払った、あの若い衆の一人だった。




