第38話:暗夜の館と、沈黙の契約
夜の重い静寂に包まれたヴェノリアの最北端。
深い霧の中に浮き上がる黒ずんだ石造りの古城——そこが聖魔術師バレットの隠居する館だった。
風が立ち枯れた木々を揺らし、不気味な音を立てる中、エリスは羽織の襟をギュッと握りしめ、重厚な鉄飾りのついた大扉の前で立ち止まった。
ドキドキと早鐘のように鳴り響く鼓動を抑え込み、エリスは意を決して鉄のノッカーを打ち鳴らした。
コン、コン、コン……。
重い音が夜の空気に吸い込まれていく。
ほんの数秒の静寂の後、鍵が外れる重厚な金属音が響き、ぎぃ、とくぐもった音を立てて大扉がゆっくりと内側へ開いた。
エリスは息を呑み、暗がりの中に声を投げかけた。
「バレット様……いらっしゃいますか……? エリスです……」
「……よく来ましたね、エリス君」
暗闇の奥から現れたのは、深い色の長衣を纏い、燭台を手にしたバレットだった。
揺らめく蝋燭の火光が、バレットの整った顔立ちと、どこか人間離れした静謐な雰囲気を浮き上がらせている。
バレットはエリスを館の中へと招き入れると、パタンと重い扉を閉め、頑丈な鍵をかけた。
通されたのは、何千冊もの羊皮紙の古書や見たこともない魔術器具、穏やかに光る鉱石が整然と並べられた、重厚な応接室だった。
「体調は問題なさそうですね。……だが、ここへ足を踏み入れたということは、相応の答えを出してきたということでしょう」
バレットは燭台をテーブルに置くと、応接セットの革椅子へ優雅に腰掛け、エリスに視線を注いだ。
「はい……」
エリスはバレットの目の前に立ち、まっすぐにその瞳を見つめ返した。
「私……バッシュの隣に居続けたいんです。足手まatoiのまま彼を傷つけるのも、彼に見捨てられるのも嫌なんです。バレット様……私に、力を得るための方法を教えてください!」
震えのない、静かな決意を宿した声。
バレットはその言葉を静かに聴き届けると、落ち着いた様子で頷いた。
「分かりました。……ですが、昼間も話した通り、私の使う術式や力の源泉は、この街の者たち……いや、この人間界の常識では容易に受け入れられぬ『禁忌』の領域にあります。私の存在そのものが、表沙汰になれば大きな混乱を招く秘密なのです」
バレットはスッと右手を差し出した。
その指先には、薄紫色に輝く繊細で美しい【魔導陣】が、小規模ながら静かに浮かび上がっていた。
「ですから……秘術の詳細を明かし、施術を施す前に、まずは私と【契約】を結んでもらいます」
「契約……」
「ええ。内容は単純なものです。『この館で目にしたこと、耳にしたこと、そして私が君に施す術の全てを、何があろうと他人に漏らしてはならない』……ただそれだけです」
バレットは静かで厳かな口調で言った。
「もしこの誓いを破り、私の秘密を他人に明かそうとした場合、君の体内に刻まれた契約の魔導陣が作動し、魔力を失うことになります。私の秘密を守ること……それが、私と君を結ぶ絶対の条件です」
エリスはごくりと唾を飲み込んだ。
魔力を失う——それは、回復術師としてあまりにも重い代償だった。
(バレット様の秘密を守ること……それだけで、私が変われるのなら……!)
バレットの言う秘密が何を意味するのか。予感はあったが、バッシュを失い、一人置き去りにされる絶望に比べれば、その条件を受け入れることに躊躇いはなかった。
エリスは頷き、バレットの手の上へ己の小さな手を重ねた。
「わかりました……! 私は絶対に、バレット様の秘密を誰にも話しません。バッシュにも、他の誰にも……! だから……契約してください!」
「分かりました。では、契約を結びましょう」
バレットが静かに言葉を返すと同時に、二人の重ね合わせた手のひらから柔らかな紫色の光が溢れ出した。
温かな熱がエリスの手に伝わり、光の粒子が手首を巡って体内に吸い込まれていく。
誓約の魔術が、エリスの魂の根源にしっかりと刻み込まれた証だった。
「これで契約は完了しました。……では、君が望む施術を始める前に、まずは私の秘密を共有しましょうか」
バレットは静かに立ち上がると、応接室の奥にある重厚な扉を指し示した。
「奥の部屋へお入りください」
バレットの真直ぐな言葉に背中を押され、エリスは深く息を吐き、固く拳を握りしめて一歩を踏み出したのだった——。
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