第36話:小さな乙女の焦燥と、影の問いかけ
バレットの秘術によって死の淵から引き戻されてから、二日が経過していた。
ヴェノリアの地下病棟の静かな一室。柔らかな陽光が差し込むベッドの上で、エリスはゆっくりと身体を起こした。
背中の激痛は嘘のように消え去り、体調も順調に回復している。バッシュやゼット、そして新たに仲間となったレオンは、エリスの回復を心から喜び、彼女を休ませるために街の宿屋や買い出しへと向かっていた。
だが——一人きりになった病室で、エリスの表情は暗く沈んでいた。
エリスは己の小さく白い両手を見つめ、ギュッと強く握りしめた。
(私は……何をしているんだろう……)
胸の奥から湧き上がるのは、生への安堵ではなく、胸を刺すような強い自己嫌悪と無力感だった。
エリスとバッシュが生まれ育ったセレスティアの村は、地図の片隅にあるような長閑で小さな田舎町だった。
村でのエリスは、少しばかりすり傷を治したり、熱を下げたりできるだけの「素朴な田舎の女の子」に過ぎなかった。
村の人々に感謝されるだけで満足していたし、自分の力が世界でどれほどの位置にあるのかなど、考えたこともなかった。
けれど——幼馴染であるバッシュが「世界を救う勇者」として選ばれたことで、世界は一変した。
バッシュの役に立ちたい。彼の隣にずっといたい。
ただそれだけの健気な想いひとつで、エリスは故郷を飛び出し、勇者の旅路へと同行することを決めたのだ。
しかし、現実はあまりにも残酷だった。
旅が進むにつれ、立ちはだかる敵の強さは跳ね上がり、バッシュやゼットは血を吐きながら成長を遂げていく。
そんな中で、自分はどうだっただろうか。
簡単な怪我しか治せない生ぬるい回復魔法。
強力な魔獣の毒や、今回のような悪質な呪いの前では、何の役にも立たない無力な術式。
エドの裏切りに遭った時も、結局自分はバッシュを庇って足を引っ張り、死にかかった挙句、バッシュに『仲間を殺す』という一生消えない重い罪悪感を背負わせてしまった。
(バッシュは優しいから……『エリスが生きていてくれて良かった』って泣いてくれた。でも……本当は、私のせいでバッシュは傷ついているのに……っ)
自分は、勇者の隣に立つ資格のない「ただの足手まとい」なのではないか。
このまま旅を続けても、またバッシュを危険に晒し、いつか自分自身の無力さのせいで彼を完全に壊してしまうのではないか。
ついていく自信なんて、もうどこにもない。
けれど、バッシュの隣を離れるなんて、もっと耐えられない。
矛盾した深い苦悩と愛着が、エリスの小さな心を押し潰し、押し殺した咽び泣きが静かな病室に漏れ出した。
その時だった。
「——ずいぶんと重い涙を流しているね」
すっと静かな足音と共に、病室の扉が開いた。
現れたのは、深い色の長衣を纏った聖魔術師バレットだった。バレットは手に持った定期診察用の器具をサイドテーブルに置くと、穏やかで深みのある瞳でエリスを見つめた。
「バレット……様……」
エリスは慌てて袖で涙を拭い、頭を下げようとした。だが、バレットはそれを手で制し、静かにベッド脇の椅子へと腰掛けた。
「無理に隠す必要はない。君の身体は治ったが、その瞳の奥にある『心の傷』は、毒や呪いよりも深く蝕まれているようだね」
バレットの静かで偽りのない言葉に、エリスの張りつめていた感情の糸がぷつりと切れた。
これまで誰にも、バッシュにさえ言えなかった胸の底のドロドロとした痛みが、溢れ出す言葉となって溢れ出した。
「私……私、本当はただの田舎の村娘なんです……!」
エリスは膝の上のシーツを固く握りしめ、絞り出すような声で己の無力を吐露し始めた。
「バッシュと育った村は本当に小さな田舎で……私はただ、少し回復魔法が使えるだけの……何の取柄もない女の子でした。でも、バッシュが勇者になって……少しでも彼の力になりたい、彼の隣にいたいって思って、一緒についてきたんです……」
涙がポロポロとシーツに染みを作っていく。
「でも……私の回復魔法なんて、この厳しい旅では何の役にも立たなくて……。今回だって、呪いを打ち消すこともできなくて……結局、バッシュに庇われて、私が庇い返したせいで、バッシュに辛い思いをさせて……っ! 私、自分がどれだけ愚かで弱いか思い知らされたんです……!」
エリスはボロボロと涙を流しながら、苦しい胸の内を全てぶちまけた。
「今の私には……この先、バッシュの旅についていける自信なんて、ひとつもありません……! でも、隣を離れるのも……バッシュの役に立てないまま捨てられるのも……怖くて、怖くてたまらないんです……っ!!」
吐き出されたのは、あまりにも切なく、けれど純粋で血の滲むような少女の叫びだった。
バレットはその哀しい告白を、口を挟むことなく、一切の否定も肯定もせず、ただ無言で静かに聴き入っていた。
長い沈黙が病室を包み込む。窓の外から聞こえる薄い風の音だけが、二人の間を通り抜けていく。
やがて、バレットはゆっくりと立ち上がった。
その表情には哀れみも呆れもなく、ただ一人の意志ある人間としてエリスと向き合う、どこか厳粛な光が宿っていた。
バレットはエリスの瞳をまっすぐに見つめ、低く滑らかな声で問いかけた。
「……なるほど。君の苦しみと、彼を想う情熱の深さはよく解った」
バレットは一歩、エリスのベッドへと歩み寄る。
「では……エリス君。もしも……その残酷な状況を打ち破り、君が『勇者の隣に立つための力』を手に入れる方法があるとしたら……君はどうするね?」
「え……?」
エリスは涙に濡れた瞳を大きく見開いた。
バレットの言葉は、まるで暗闇の底で彷徨うエリスの前に落とされた、一筋の蜘蛛の糸のように怪しく、そして抗いがたく響いた。
「正統な祈りや生ぬるい修行では、君の限界を超えることはできない。だが……世界から莫大な魔力を直接取り込み、君の存在そのものを書き換えるような『秘法』が存在するとしたら——」
バレットは静かに手を差し伸べ、エリスの葛藤の深さを試すように、問いを重ねた。
「たとえそれが、常識を外れた異端の道であろうと……君は、その力を望むかい?」
バレットの投げかけた問いが、エリスの胸の深層で、ゴトりと音を立てて波紋を広げていった——。
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