第4話 『野球』という言葉の形
同日午後 親川宅
「雄太。お客さんよ」
「誰だ? いったい」
母の声に宿題を中断して階段を下りる。自分を訪ねてくる人と言えば織田くらいのものだが、その場合ならば「雄太。雪ちゃんよ~」と母が呼ぶのが普通である。宅配便ならば勝手に受け取っておくだけであるし、お客さんとはいったい。
「は~い。どなた――」
「お久しぶりです。雄太さん」
「えっと……井島」
「千嶋です」
赤羽と同じチームの女子中学生。河川敷で打球直撃から助けたあの子である。短期間だけチームに参加した時は、ピッチャーをやっていたということで覚えている。しかし詳しくは覚える気がなかったようで、名前もあやふやである。
「少しお話があって来ました」
「あぁ~」
親川は振り返って家の中を見る。と、織田以外としては珍しい女子の来訪者とあって、父も母もそれとなく視線を向けているのが見える。なにせ相手は見てくれからして高校生っぽくないのである。
「上がるか?」
追い返すとまた来そうで面倒だし、かといって親の視界内で話をするのも自分のメンタルがもたないところがある。いきなり自分の部屋に女子中学生を招き入れるのも気が引けるものの、少なくとも玄関先よりはマシである。
「じゃ、じゃあ、お邪魔します」
彼女も家に上がることになるとは思わなかったようで、返事は少々小声気味。靴を脱いできれいに並べて置いておき、先を行く彼の背中を追う。
「部屋、2階」
「は、はい」
仲が悪いわけではないにせよ、取り立てて仲のいいわけでもない2人。事務的なやり取りだけで部屋に向かっていた。ただふと気付いた親川がその空気を破る。
「しかし、よく僕の家を知ってたな」
「今日、織田さんから、聞きました」
「雪か。あのおしゃべりめ」
余計なことをやってくれたと思う。実際のところ織田さえ黙っていれば、千嶋の周りで親川の住所を知る人間などいないのである。
「ここが僕の部屋」
木の扉を開けて中へ。
「お邪魔します」
「適当なところに座ってくれ。そこの座布団、使っていいから」
普段は織田が使っている座布団を指さすと、彼女は一切その位置を動かさずにそこへ正座する。
『(なんだか、普通の男子高校生のお部屋みたい)』
そもそも普通の男子高校生の部屋を知れないが、あくまでも彼女のイメージとしての普通である。
本棚を見れば学校の教科書・ノート類。それ以外には流行りのマンガや、ベストセラーになったハードカバーも。勉強机の上を見れば端にはノートパソコン。テレビの下にはゲーム機。違和感らしい違和感はない。ただ強いて言うなら、
『(野球関係のものが全然ない?)』
先ほど目にした本棚を見ても、野球漫画も、プロ野球の選手名鑑もない。グローブ、ボール、バット。とにかく野球に関したものが目に見える範囲に一切ないのである。少ししかないならまだしも、中学まで野球をしていた人がこれほど野球っ気のない部屋なのだろうか。そもそも少し前に一緒に野球をしたはずである。その時に持っていたものすらない。
『(もしかしたら、クローゼットの中なだけ?)』
織田から彼の事を聞いた結果、そうした何気ない事まで勘ぐってしまう。
「で、何の用。と言っても、なんとなく勘付いてはいるけど」
ベッドに腰掛けた親川はやる気なさそうな反応。なにせ用件の予想がついており、その予想が自分の好まぬものなのだから当然だろう。
「はい。おそらくその勘は正しいです。一緒に野球をしましょう」
「やっぱりなぁ。悪いけど野球は嫌いなもんでな。前にやったのは、赤羽議員がしつこいもんだから、1回だけっていう条件だったし」
「でも野球経験者なんですよね。走攻守、三拍子揃った外野手だったって」
「雪か?」
「織田さんに」
「ったく。あいつは」
住所を話したかと思えば、野球経歴まで話したようである。こうなると四六時中連絡可能な電話番号・メールアドレスを知られなかったのは幸いである。
「経緯は聞いたのか? 僕が野球嫌いな理由も含めて」
「はい。織田さんから聞きました」
「だったら知ってるだろ」
「はい。聞いたら、痛いほどよく分かりました」
彼女の返しに彼は彼らしい冷たい態度での応酬。
「たかだが人伝手に聞いただけで、そんな簡単に痛いほど分かる。なんて言われてもな。口だけならなんとでも言える」
彼の主張は言い方にトゲがあるにせよ、一応は筋が通っているところがある。これまでの生き甲斐を踏みつぶされ、奪われた状態。彼にとっての野球は心のよりどころでもあったのだ。自分の行く末を失った中で、今のように普通の高校へと通える状態に立ち直ったのは相当である。そんな一連の出来事をたかだか人から聞いた、それも自分以外の人間から部分的にとあれば、「痛いほど分かる」がどれほど軽々しい言葉かが分かるだろう。
このようなこと、中学2年生の女子に言うべきではないのだろうが、それほど自分の禁忌に触れられたのが癪に障ったか。幼馴染の織田を除けば、そこへ触れるのは危険行為である。
ただ中にはそれを自分の事のように感じられる人もいるのである。例えば、
「いえ。分かります。だって、私も一度、中学校で野球を捨てた人間ですから」
同じ境遇を持った人間である。
その返答にわずかに顔を動かすも、それほど大きく視線の変化は見せない。それでも彼女は彼が聞いてくれていると信じて話を続ける。
「織田さんに聞きました。私の今通う中学と雄太さん達の出身中学は同じそうです」
それは親川も知っている。なにせ以前、彼女と会った時に制服から中学校は分かっているからだ。
「私は1年生の間、入学して数か月は野球部にいたんです。小学校終わりごろから始めた、当時は野球経験数年間の下手っぴでしたが」
彼女はわずかに間を置いて一言。
「そして監督は雄太さんの現役時代、3年前から変わっていなかった」
「あの頑固なマヌケ教員か」
同じ波長を感じたのかついに口を開く。
彼はマヌケ教員と言っているものの、その人は教員としては非常に優秀なのである。ただ野球指導者としては無能で頑固であっただけで。
「先生は女子が男子とプレーするのを前向きにとってはくれませんでした。露骨に否定はしませんでしたが、選手としてではなく半ばマネージャー扱いでした。だから私は、野球界は自分を、女子を受け入れてはくれない。そう思って野球を捨てたんです。たった1年間しか経験はなかったですが、やっと見つけた好きなものを捨てました」
「でも、すぐに手に入れた」
「はい。直後、同じクラスだった八恵ちゃん――野里さんに、一緒に草野球をやろう。って勧誘されたんです。なんでも近所に住んでいた赤羽さんが草野球チームを作ろうとしているからって。私は野球を捨てたとはいえやりたい気持ちも残っていた。だから再び始めました」
少しだけ千嶋は彼へと近づく。
「野球を失った辛さが分かる。その経緯も同じ。だからこそ、私は雄太さんを野球に誘っているんです。他人事には思えないんです」
「確かに千嶋はあのマヌケ教員のもとで苦労したんだと思う。けど、僕は野球を捨てて長い。千嶋とは違うさ」
「私と雄太さんは、野球を始めたタイミングが違います。私は6年生。雄太さんは織田さんが言うには1年生から。それで野球をやめたのが、中1と中2ですから、経験も大きく差があります。さらにそこから、私はやめて数か月で草野球を始めました。雄太さんは今の今まで野球をやっていない。たしかに同じ境遇と言っても、時間が違います。私よりも何倍も長い間を野球と共に過ごして、私よりも何倍も長い間野球を失っていたんですから」
彼女は彼がそれに言葉を返す前に「ですから」と制した。
「きっと、再び野球を手に入れた時の思いは、私よりも何倍も大きいとは思いませんか? きっと私が想像のつかないくらいに。その喜びの大きさこそ、私には理解できないかもしれないです」
何か返そうとしていた親川も、彼女の必死の説得により封殺。
「私たちは楽しく野球をしていますが、一方で経験不足によって負け続けています。勝ちたいと思っているところなんです」
立ち上がった千嶋は彼へと歩み寄った。
「雄太さん。もう一度、野球をしませんか? そして勝利を知らない私たちに勝つ楽しさを教えてください。そのかわり、私は、いえ、私たちは雄太さんに、勝ちにこだわらない楽しさを教えてあげます。ですからもう一度」
彼女は自分に手を差し伸べる。
それはさながら彼女を助けたあの時の自分のように。
千嶋へ親川が手を差し伸べたことによって始まったすべては、親川へ千嶋が手を差し伸べることによって更なる道へ動き出す。
「そう。もう一度だけ、大好きな野球へ、向き合ってみませんか?」
―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――
彼女の手は取れなかった。
ただ拒否したわけではない。
保留させてもらった。今すぐには結論が出せなかったのである。
確かに彼女の意見は最もであった。彼女以上の野球経験と、野球を捨てた期間。それにより彼女以上の苦悩を背負ってきた分、それ相応の喜びを得られるかもしれないのである。ただ一方でまた失うことになれば、一度取り返したものを再び失う、2つの過去に苦しむことになるかもしれない。それならば中学で全てを切り捨て、一切振り返らずに生きていく方がいいのではなかろうか。
手放した宝を手に入れたい思い。
もう一度失うのが怖い思い。
昨日からずっと、その2つの葛藤の間で思い悩んでいた。
翌日、日曜日も朝から上の空気味。
ベッドに寝転がって考え事をしていた。
親は朝から外出している分、誰にも邪魔されないのは僥倖であった。
「ハロー、雄太。いる?」
ただ幼馴染が突入してきたのは予想外だ。
「雪っ。何、勝手に家に入ってきてんだ」
「鍵、開いてたよ」
「せめて呼び鈴を鳴らせ」
猫と女は呼ばない時にやってくるそうである。
飛び起きた親川は怒号を上げながら、ベッドの端へと腰かける。
「まったく。人の住所を勝手に教えるわ、過去を勝手に語るわ。好き勝手なヤツ」
「何か言った?」
「別に」
彼は話をややこしくするのが面倒になったので、独り言と割り切って頭をかきながら問う。
「で、こんな休日の朝っぱらに何の用?」
「ちょっと聞きたいことがあって」
「電話じゃだめな内容?」
「できれば面と向かって」
「あ、そう。で、何?」
素っ気なく聞いてみると、彼女は彼の目を凝視して聞く。
「雄太って、野球が嫌い?」
「嫌い、だな。紛れもなく」
そっぽを向きながら答える。しかし織田は首をかしげながら続ける。
「ちょっと質問を変えてみようかな。雄太が嫌いなのって――」
彼女の続く質問は彼を悩ませた。
「『野球』なの? それとも『野球部』なの?」
「野球……部?」
「そう。野球そのものが嫌いなのか、部活としての野球が嫌いなのか」
親川は今まで「野球が嫌い」と言ってきたが、それは意識したことのない視点であった。
両者は明確に違うものである。単純に部活動が嫌いであっても野球が好きなら、赤羽議員や千嶋のように草野球で楽しくやることもできるし、プレーが嫌いでも、観戦、野球ゲーム、その他諸々などでプレーせずとも野球を楽しむことができる。しかし親川はそれを一緒に見なし、一概に嫌い、拒絶してきた。だがその認識は果たして正しいものなのだろうか?
久しぶりに自分の目を見てくれた親川に柔らかな表情を向ける織田。
「ねぇ、雄太。この間、みんなでやった草野球。楽しかったでしょ?」
「そ、そりゃあ、つまらない、と言ったら嘘にはなるけども」
「それって、雄太が今までやってきた野球部と、みんながやってた草野球が、まったく別のものだからじゃないかな?」
そこまで言い切るも、彼女は首を振って訂正する。
「ううん。雄太がやってきた中学野球。対してみんながやっていた草野球と、少年野球。もしかしたらこっちの方が正しいかもしれないよね。少年野球はみんなで楽しくできてたもんね」
「野球は野球だろ?」
「じゃあ、なんであれほどまで野球を拒絶してきた雄太が、この前の草野球はちょっとでも『楽しい』って思えたの?」
彼女の一言に反論できなかった。
「それって、きっと勝ち負けを優先しない野球をしていたからじゃないかな。勝ち負けがないから、こうしなければならない。あぁしなければならない。そんなプレースタイルなんてどうでもいいもの。自分で好きにプレーすればいいんだよ」
少し俯き気味に考え込む親川の背後に回り込み、彼の肩に手を置く。
「もちろん勝ち負けはあるし、勝つことによる楽しさはあるよ。だからこそ議員たちは、『勝ちたい』って思って雄太を誘ったんだし。でも、勝ちにこだわってるわけじゃないのは、きっと雄太のやっていた野球とは違うものだと思うな」
「でも、仮に野球を再びしようと思っても、もう僕にはどうしようもできない。今は打てないし、守れないし」
「もっと肩の力を抜いていい思うよ。だって、勝ちたいとは思っているけど、勝ち負けなんて二の次なんだし。それはみんなもそうだけど、チームに入ってしまえばきっと雄太も同じだよ。それに、力を失ったからこそ見える世界もあると思うよ。力を失って競い合うことができなくなったからこそ、それから解放されるかもしれないよ。それに――」
立ち上がった彼女はクローゼットの前まで歩いて行く。そしてさも自分の部屋かのようにためらいなく開けた。
「やっぱりあった」
彼女が見せるクローゼットの中には、中学時代に使っていた金属バットや自分の名前の刺繍が入ったセカンドバック。さらにそこにあったグローブは、以前に彼が「親父のもの」と説明していたものである。しかしこれは紛れもなく彼自身のもの。父親も息子とキャッチボールをするためとグローブを持っていたが、手入れなんてされてはいないし、型なんてできているわけもないのである。
「やりたいんでしょ。野球」
そこへあった軟式球を手に取った彼女は、スナップだけ利かせて彼へと放る。それを右手で受けた親川。
「さぁな」
彼は軽く腕を振って投げ返す。ストライク送球であったとはいえ、それを素手でしっかり捕ってしまうあたり、彼女もさすが元野球少女である。
「正直になればいいのに」
「そういう性格なんだ」
―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――
千嶋に初めて会った時にはまだ桜が咲いていたのに、今となってはその花もほとんど散ってしまった。つまるところがそれだけの時間が過ぎてしまったということである。
ただ桜が咲いて散っていく。長いと言うには短く、短いと言うには長い時でありながら、彼の高校生活はターニングポイントを迎えていた。
何気なく下校していた通学路の河川敷。偶然に河川敷からファールボールが飛んできて、その先には偶然に女子中学生がいた。その中学生を助けたところ、その彼女が偶然、クラスメイトが作った草野球チームに所属していたというのである。そしてその自らを救ってくれたワンプレーを見て感じるところがあった彼女が親川をチームに誘った。
もし1分、いや10秒でも親川、もしくは千嶋の下校時間がずれていれば。
ファールが飛んでこなければ。
親川が彼女を助けるために打球を捕らなければ、捕れなければ。
彼女が草野球チームに入っていなければ。
入っていても、親川らに接点のある人物がチーム内にいなければ。
ひとつでも歯車が狂えばあり得ることのなかった出来事。
蝶の羽ばたきが竜巻を引き起こすように。
小さな、非常に小さな出来事の連鎖が1人の人生を変えようとしている。
「ねぇ、待ってって」
「だからついてくるなって」
高校生ともなると、放課後の教室に残って勉強するなんて子はそういない。みんな家に帰るか、部活に行くか。勉強する人でもせいぜい図書室や塾くらいのものだろう。だからこそ親川は教室に残って考え事をしていたのに、暇人の織田がいたせいで考え込むこともできなかったのである。
まるで彼女を振り切るように先に帰り始めた親川だが、学校の正門をくぐる前に早くも追いつかれる。
「まったくしつこいな。そんなに憎悪を稼ぐようなことしてると、そのうち背中を刺されるぞ。ご先祖さんみたいに」
「私の知り合いに明智さんはいないし大丈夫。それに本能寺で背中を刺されたのは、私にとって直の祖先じゃないし」
織田雪の一族の家紋は、あの信長で有名な『織田家』とバッチリ同じ木瓜紋。しかし曰くあの信長世代の相当前の時点で分かれた別の織田家らしく、信長の子孫というわけではないらしい。詳しいことについては系図その他一切の証拠が、先の大戦にて消失したとのことで存在しないらしく、真偽のほどは不明である。
「じゃあ、僕が刺すかもな。敵は米子にあり」
「いいの? 中国大返しが起きるよ。ここはもう中国だけど」
「それ、誰がどこに返すんだろうな」
2人で小学校時代に夏休みの宿題として合作の『本能寺の変の真実』なる自由研究をしただけに、そこのところの知識は豊富である。
学校の敷地内から出てしばらく行った河川敷。学校を出るころから始まった『羽柴秀吉・天下への道』についての話を筆頭に、野球の話題から大きくずれ始めていたが、河川敷グラウンドで野球をしている団体を目にして揺り戻される。
「まだ野球への思いは変わらないの?」
「変わらない」
そう言いかえす親川。そこで彼女はふと立ち止まる。
「ねぇ。雄太。少しだけいい?」
「面倒」
「分かった。これだけ聞いてくれたら、私はもう雄太に何も言わない。野球を捨てたっていいよ。これで最後の一言」
「嘘は嫌い」
「多分、ここで言えることが私にとって最高の後押しだから。これで雄太が野球をしないって言うなら……もうやるだけ無駄だもん」
彼も彼女に合わせて立ち止まる。
「で、用件は?」
彼も彼女から野球についてとやかく言われ続けたのは疲れてきていた。そしてもう1つ足を止めさせた理由もあったのだが、それは彼の深層心理。彼自身が明確に意識している者ではなかった。
「みんなは野球経験者の雄太に来てほしそうだった。でもそれって、雄太の実力じゃなくて、経験にすがりたかったんじゃないかな?」
「経験ねぇ」
言われてみれば千嶋もそのようなことを言っていたような気がする。
「だからさ、みんなは雄太のことを選手としても期待してる。でも、同時に教えてくれる立場としての雄太も求めてるんじゃないかな?」
彼女は河川敷にて野球をしている学生たちに声を飛ばしている、おじさんのコーチへと目をやった。
「雄太が野球を辞めた理由って元はと言えば、中学校の顧問に合わないやり方を押し付けられたからなんでしょ。じゃあさ、こうしなければならない。あぁしなければならない。みたいな押し付け指導。その悪さだとか、指導を受ける側の気持ちって知ってるんだよね。だったらの経験を生かしてあげればいいんじゃないかな? 今度は自分が教える側として」
「指導者、か……」
「言ってみればそんな硬いものじゃなくて、感覚としては友達に勉強を教えてあげる感じ? それでいいと思うよ。やり方を押し付けず、楽しむことを優先して。雄太が以前、練習に行ったときに、最後に長谷崎さんにバッティングを教えてあげたでしょ。あんな感じでね」
彼女は最後にもう一言だけ。
「野球っていう言葉は一つだよ。でもその野球の形は何百通り、何千通り……無限にあるんだよ。目指すもの、プレースタイル、立場。本当に雄太の嫌いになった野球って、すべての『野球』なのかな? それとも中学でやったひとつの『野球』なのかな? それだけもう1回考えてみるといいと思うよ」
彼女の最後のフレーズを聞いてから、もう一度考え始めた親川。すると直後に彼の背中を思いっきり彼女は叩き、彼の手を取って前を行く。
「これで野球の話は終わり。何も野球だけが人生じゃないしね。捨てるのも選択肢だよ」
ついでに彼に野球以外の選択肢も残し、笑顔を向けた。
「さっ、早く帰ろ」
「うん。ありがと」
「どういたしまして」
彼女が指し示したいくつもの道。その中から彼は1つの選択肢を導いた。それは決して1つの道を選び抜いたわけではなかったが、紛れもなくこれから進む道を選ぶための通過点に立つための一歩だった。だからこそ彼女の目に映らない彼の表情は、ここ最近で一番に明るかったのかもしれない。




