表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/28

妄想日記―8―

とうとう完結しました妄想日記。

よ、よかった。できたよ。完結して安心した。

「さて。そろそろ茶も、くつろぎの姿勢も後回しにして欲しい。……いいだろうか」

「ダーリン、僕のお願いはハニーのさえずりを聞くことで……いや、いいや、確かにハニーには聞く権利があるね。うん。どこから話そうか」

「その前にダニエル君は人称を統一してくれないか。私が混乱している」


アイリーンの兄であるキルトがきっぱりと宣言したことで、ダニエルは目を瞬いた。応接室は明るい場所にあるものだから細かい表情もよく見える。屋外よりも影が飛ばない分、わかりやすい。

きょとりとした顔をしつつもダニエルの動き自体は止まらない。

彼はアイリーンの居心地がいいように長椅子にオットマンを引き寄せた。位置を調節しクッションをあてがい、ありえないほどに無礼だがアイリーンの足をそっと持ち上げる。ふかりとした低い椅子にふくらはぎをあげさせて、タイミングよくお茶を差し出してくれた侍女に礼を言いながら彼女の隣に座る。

しかもこの間、わずかたりとて停滞しなかった。

流れるような、というのがぴったりのエスコートぶり。

そこまでしてから我に返ったようにダニエルがキルトに頭を下げる。


「申し訳ありませんでした。文通を介してのやり取りの間、その、……アイリーンさまのことをダーリンだとかハニーだとか呼んでまして、それで」

「人称が統一していなくても、お互いしかいないのだからそれでいい、と?」

「はい。最初は、誰もが使える単語であるならばもしや、私が使っても違和感がないかと思ってたのですが……その、口に出さずとも、私にとって、ですね」

「…………もしかして、私の名前を滅多に呼ばないのは、ダニエルさま」


うぅぅぅ、と呻いたダニエルが一気に赤くなった。アイリーンにとって恐ろしく意外だがこう見えて極めて狭い範囲、ごくごく一部ではシャイなようだ。

戸外では滑らかに呼ばれたような気がしたが。思い返せばなるほど確かに面と向かってはアイリーンは名前を呼ばれていない。


「一度なら、任務だと腹を括れば名前呼びもできる。だけどダーリン、僕は普段、むさくるしい野郎どもに囲まれて生活してるし、そんな、何度も女性の名前を呼べるなんて光栄な目に会えるとは思ってなくて」

「と、尻込みした結果が、より不躾な呼び方か。大したものだな懐刀」

「ふところがたな?」


それはまた、たいそうなあだ名だ、とアイリーンは小首をかしげる。

ダニエルに付けられたものだろうか。


「アイリーン。私は、彼が組織全体の取り纏めに、一役どころでなく関わっている、と聞いたよ。現伯爵の切り札の一枚だそうだ。前伯爵の用意した懐刀、三子のダニエル」

「……過分な単語です」

「いやいや、噂を聞くに、そう外れてもいないようだけど? 君は陰犬の副隊長だよね?主に情報収集の責任者。組織全体の取り纏めにも、一役どころでなく関わっていると聞いてるよ。現に、今回は我がアナスタシア商会の裏帳簿を探りにソートワン家に忍び込んだようだし」

「……ほう」

「い、いやダーリン、ち…………違わない、が。アナスタシアは、その図体のわりにきれいすぎたんだ。経営が。書き損じのない帳簿も胡散臭かった。だから」

「それはそうだろうな。アーシャはアイリーンのものだから、経営も帳簿も彼女の好みで進められる。字がきれいだというのなら、アイリーンの書いたものだろう。経営は……アイリーンが喜ぶようにと、父も私も留意している」


初めて知った事実に兄を見やると、それこそ綺麗な顔で笑いかけられた。そんなレベルで大事にされてるのかと、そこまでの溺愛に自分が足るレベルかとアイリーンは是非、今すぐに問いただしたいが。

ここは、黙ったままでいた方がいいようだ。


「こちらにお邪魔させていただいて、ある程度は理解していましたが……そうですか。ダーリンは名実ともにアナスタシアの要。私が思ってるより本物の要なんですね」

「アーシャはそもそもの成り立ちがアイリーンのためだからな。地所の管理にも経営にも的を外したことは言わない、着眼点は鋭い、見やすい書類を作れる。これだけでも手放したくないのに。更に有能でかわいらしく、性格も控えめ、謙虚なのに甘えてくることも知っていて」

「兄さま」


身内の褒め言葉は聞き苦しいと遮るアイリーンにキルトは笑ってみせた。もっと語りたいという熱情が瞳の奥にチラチラと伺える。

うぅ。あの顔は、ダニエルさまが帰ったあとで、いかに私がかわいいかをもっと聞かせてあげるって意味だろうな。遠慮したい。ものすごく遠慮したい。

アイリーンが視線をうろつかせた隙に、ダニエルが話を再開する。


「……少し気になって誰が経営してるのかと調べようとしてみても、アナスタシア商会からソートワンに辿りつくのは骨が折れました。なので逆に目を引いたんです。理由があるのかと」

「……なるほど、そう考える向きもあるのか」

「最初に伝えました通り、『きれいすぎ』ました」

「清流を見て、その下の濁流を思うか。私としては君のように純粋さを欠いた人間をアイリーンに近付けたくはない。わかってくれるだろう?」


唐突に、キルトが本題に戻る。いいや、タイミングを計っていたのだろう。ダニエルが貴族の三男であることのデメリットとメリットは、アイリーンにしてみれば断りの文句として弱すぎる。ならばと薄暗そうなところを突いた。

ダニエルは生家が遠い。入り婿にするにしても紹介に属するものとしては特殊な思考と訓練をも叩き込まれているはずだ。

血腥いことも厭わない、卑怯なこともできる男は、キルトの目からすればアイリーンに最もふさわしくない立ち位置の男である。


「承知しております。けれど、それでも私はもう、アイリーンさま以外に他の女性など考えられない。困難は承知の上なのです。とりあえず父や兄にはすでに、私がハロッケンの名を捨ててもいい覚悟を伝えてきました。私個人の財産目録が必要ならばこちらにあります。身上書なら探偵を使っていただいても構いません。どこの馬の骨がと、結婚とは何を思い上がってのことかと、キルトさま、そしてソートワン男爵には突然のお話で戸惑われることだと思います。それはもう、私の方がこんな強さで誰かの傍にいたいと思うことがあるとは想像もしてませんでしたから。ですが、知ってしまったのです。彼女を。アイリーンさまを。……ならば、仕方のないことでしょう」


隠しから何枚かの書状を取り出すとダニエルはキルトに渡し、実に長い口上を一気に述べ上げた。隣でアイリーンは唖然としている。ダニエルの話の中身にというより、よくもまぁこんなに口が回るなと言わんばかりだ。


「こちらに潜入してすぐに、アイリーン嬢の才能に驚かされました。外見にも。たおやかな妖精だと、それが私にとってアイリーン嬢の第一印象だったのですが」

「褒め殺しか」

「まさか、そんな。ハニー。君は、きちんと生きていた。心根はまっすぐで忠誠心があり、非常に女性らしく可愛らしい。なによりも、領地への興味だよ。君の領地論、経営論は傾聴に値する。俺は何度、自分の部下を連れてきたかったことか」

「やはり褒め殺しだろう」


真面目に聞くことが馬鹿らしくなるレベルの眼の曇り方に、アイリーンは本気で呆れ果てた。見れば、キルトが他人に向けるには珍しい勢いで仏頂面をしている。いまいち不機嫌になる理由はわからないが、


「ダニエル君。話は了解した。父の代わりに私が君の話を断る。そして、すぐにこの屋敷から退去したまえ」


真面目に、取り繕えないほどにおかんむりのようだ。これほどに凍りついた声を聞くのが久しぶりなアイリーンはそっと自分の二の腕をさすった。

怖くないんだろうかとダニエルの方を伺うが、こちらは真顔なだけでどこにも怯えがない。存外、度胸が据わっているらしい。とアイリーンは自分の中のダニエル像を訂正する。

お茶目で軽い人物だけなのだと思っていたが。


「もう少しだけ続けさせてください、キルト子爵。ぜひ早急にアイリーン嬢との結婚を許していただきたいのです」

「…………なるほど。理由が?」

「ありません。恋する男の愚かな願いです」

「確かに。アイリーンを知ってしまえば我慢はきかんか」


というよりそろそろアイリーンとしてはそろそろ突っ込みたくてたまらないのだが、なんだろうこれは。この精神的拷問に終わりはないのか。どこの誰なら兄と友人から無駄に溺愛レベルを騙られたいものか。耳をふさいでしまいたい。


「ききません。私はずっとハニーを見ていたい。朝に起きて幸せを噛みしめ、一緒に朝食をとって舞い上がり、ハニーの日課に一区切りがつくごとに近くに寄らせてもらいたいのです。昼食、ハイティ―、夕食。ハニーの傍にいられる時間がずっと、私を世界一幸運な男にします。笑いかけてもらえればなおさら。ハニーを寂しがらせることなぞ決してしません。瞳が曇るようなことも全力で回避します。ハニーの全部が、私を、満たす」

「…………なるほど」


気圧されたらしい。キルトは二度目の『なるほど』をこぼすと、いささか長椅子の上で身じろぎをした。良く見るとダニエルから距離を取ったようだ。

さもあらん。そうして、アイリーンはといえば恥ずかしさと何かの感情が限界を突破したのだろう。唐突にダニエルに向かい合う動きを見せる。


「ダーリン。ダーリン、ダーリン。貴方はきっと、勘違いをしている。私は、そこまでダーリンに思ってもらえるような存在じゃないよ。どこらでもいるような……いや、これだけ虚弱な体とふてぶてしい感性を持ってるんだ、普通じゃないよな。そう、……普通じゃない」


だから、とアイリーンにしては長い口上を必死で届けようと、彼女はダニエルに向かって手を伸ばす。上腕を両手で持ち、ぐっとダニエルの顔を覗き込んだ。


「だから、貴方の恋情は、ただの気の迷いなんだよ。ダーリン」


変わった子に対する知的好奇心をこじらせてるだけだと主張すれば、ふぅっとダニエルの纏う空気が色を変える。それこそ、ちょっと顔が良さ過ぎるが、どこにでもいるような貴族の若者が。

ゆっくりと口角を上げ、目を細めただけで。

違う何かになった。


「ハニー? 僕はね、君と結婚してから愛を囁かせてもらおうと思ってた。時間をかけて、ゆっくりじっくり君が信じるようになるまで、ハニーの、どこにどれだけ惚れ込んでるかを逃がすことなく伝えたかったんだ」

「……ダニエル君。申し訳ないがアイリーンは君にふさわしく無いようだ。夫の愛情を疑う妻など存在していい物じゃない。婚姻は契約だ。土台をしっかりさせない限りアイリーンには荷が重すぎる」


ここぞとばかりに畳み込んでくるキルトを一瞥して黙らせると、今の今まで人畜無害を形にしたような青年が肉食獣に変わった。豹変だ。貴族の無責任そうなボンボンが、経験を重ねた『指導者』の顔になる。


「いいえ、キルト子爵。土台なら結婚してから作ればいい。アイリーンさまが僕を選べば問題はなくなりますね?」

「君も粘るな、ダニエル君。しかし我がソートワンは貴族にあるまじき恋愛結婚推進主義だ。アイリーンが君を選べば全力で男爵家が君たちを応援しようが」

「しない。私は、ダニエルさまを選ばない。ダメだ。こんな、こんな出来損ないがダニエルさまみたいに上物を捕まえるなんて、天が許さない」


アイリーンは混乱しきり、頭を強く横に振る。一拍遅れで結っていない髪が頬にまとわりついた。

それを丁寧にかきあげてやりながら、ダニエルはうっとりと微笑みかける。


「天なんて。僕がハニーを望むのに、他に誰の気持ちがいるの? それこそ許されないよダーリン。こんなに君を望む男がいて、君も嫌じゃないのに、一緒にいられないなんてありえない」

「……え?」

「君が自分を出来損ないっていうのなら、僕はそれごと君が欲しいんだって言うよ。華奢な体も淡い金髪も抜けそうな肌色も。聡明な頭脳に奢らない性格。これだけ愛らしい反応をしてくれる素直さ。どこをどう取っても、僕がハニーに溺れる理由たりえるだろう?」

「え? え?」

「本当はね、僕としては攫ってもいいんだ。苦労して、努力で、ハロッケン私設軍の副隊長をさせてもらえてるから方々からの追手からは逃げ切る自信がある。ハニーを洗脳することもできるし、というか、むしろ監禁してしまってずっと僕の屋敷で溺愛してる方が僕としては苦労は少ないだろうね。君の姿を見た男はきっと君を好きになる。だったら君を外に出さなければいい。よその誰かに取られてしまうとか、そんなリスクは冒したくない」


優しく両頬を持ち上げられたが、アイリーンは呆然としているだけだ。近すぎる距離に無礼が過ぎると怒ることもない。光を消していく瞳孔に怯えるどころか、うっすらと頬を赤くしている。

向かい側の長椅子で、どさりと音を立ててキルトが全体重を背もたれにかける。諦観のため息を大きく、聞こえよがしに天井に向けた。

無論、自分たちの世界に入った恋人未満には聞こえていない。


「けれど、僕は、そのままの君が欲しい。くるくると表情を変え、僕の心を踊り上がらせる笑顔が好きだ。変な喋り方? いいや、ストレートで誠実だ。考え方? 当然のように僕はそこも愛してる。閉じ込めてしまえばハニーのどこかが損なわれるというなら、僕は歯を食いしばって独占欲と折り合いをつけるよ。ああ、その価値がある。それは僕が決める。僕が、君を、愛してるから。君を大事にしたいっていう、この結論は、僕が出すものだ」

「ぅ、うぅぅぅ」

「大好きだよハニー。いいから僕のところにお嫁においで。いい子だからずっと僕の腕の中にいてくれ。君がいないと気になって仕事に手が付かないし、食事も美味しくないんだ。哀れな男に慈悲をかけて欲しい」


だらだらと垂れ流される口説き文句を、いい加減にキルトは切り上げさせようと手を振るがどちらも聞いていない。どこまでこの口上を聞かされるかとうんざりしたころ、いささかどうかと思われるような情けないセリフが決定打だったようだ。

ついにアイリーンはこくりと頷いた。ぱっと表情を明るくしたダニエルが頬にかけたままだった両手に心持ちの力を入れる。ごく自然に距離を詰められた。


誘導した唇は驚きすぎてうっすらと開き、かすかに白い歯がのぞく。

どこまでも清楚で自然なその唇に、届くか届かないかの時に。


「消え失せろクソ野郎。どこの誰だか知らんが、我が家で私の宝に手を出そうとはどういう了見か、執務室でじっくり話を……キルト。そこにいたのか。お前がいながらこれはどういう事態…………ああ。………………ああ。君がダニエルか」


……歌うような静かな恫喝から一転、誰かがダニエルの額から手を離す。ぐきりと音がしそうなほどにのけぞらされた首はすぐに戻ったが、その隙にアイリーンは奪われてしまった。絶望を端的に示すかのような深く長い呻き声の持ち主をかろうじて寸前に認識し、ダニエルは攻撃態勢を解除する。

だが、とっさに解除はしたものの腹は煮えた。

舌打ちを寸でのところでこらえてダニエルは立ち上がる。目の前の男はアイリーンの父だ。男爵だ。それを言い聞かせ続けないと拳を握ってしまいそうな自分が怖い。

ちろりと応接室の扉を見ると、家令が難しい顔を控えていた。ダニエルは血の気が引く音を幻聴した。右の耳では男爵の訴えとアイリーンの可憐な声を聞いているが頭の中は忙しい。


もしや、もしかしなくても、振り出しだろうか。兄を説得したあとは自動的に男爵にも話が通ると思っていたが、この様子だと家人にまで説得の義務が付くのだろうか。まさか。


いいや、まさか。




そうして、ようやく兄からの了承を得たと思ったダニエルの前に新たな敵が現れ、また違う戦いが始まる。さすがに男爵は年齢を重ねているだけのことはあった。情に訴えるような嘆きがアイリーンの心を打ち、あれよあれよというまに結婚へとの条件が積み上げられていく。

結果として、ハロッケン辺境伯爵が三子、ダニエル=フロッケンは、愛しくてかわいい最愛の懸想女子の唇を結婚式の当日まであきらめなければならなくなった。









「……とのことです。ダーリンは今夜、どうしますか、……と」


一人ごちながらアイリーンはさらさらと手を動かす。兄、キルトが先日に販売を開始した新型改良ペンは売れ行きが予想以上に好調なようだ。帝都での売り切れが続出、さらにアナスタシア商会の小売店舗では関連していない商品ですら売り上げを伸ばしているという。帝都の情報がハロッケン辺境伯領でもアイリーンの実家でも同じように受け取れるとは便利だ。重石の陰犬は大変に便利な存在で助かっている。

かきあげたノートを閉じ、アイリーンは立ち上がる。出っ張った腹は邪魔だが、ここに愛する夫との子供がいるのだ。どこまでも大切にしてあげたい。

交換日記、と書かれたノートの表紙にはナンバーが打ってある。酔狂なことに、夫になったダニエルは落書きレベルの双方伝え書きを継続させたがった。知らない君が知りたいと甘くささやき、一度に半時以上離れないくせに日記をねだる。


「アイリーン」


おざなりなノックのあと、急な勢いで扉が開いた。毎回思うがダニエルは器用だ。アイリーンが扉の傍にいるときには決して急くような開き方をしない。父や兄と同じく、気配とやらを感じられる人間らしい。


「雪が降りそうだ。居間に温かい飲み物を用意してもらったから、おいで?」

「ダニエル」


名前を呼ぶのは抗議のつもりだ。アイリーンは成人女性で、もうすぐ出産を迎えるほどれっきとした大人なのだ。少なくとも一人で歩ける。


「ダメだ、ハニー。君は明日から実家に帰るための馬車旅だろう? 体力の消耗を少しでも押さえないと」

「……馬鹿だろ、ダーリン」

「本望だ」


きっぱりとアイリーンの望みを叩き落とし、ダニエルは執務室を出る。窓の外には鉄格子は嵌っていない。ここはハロッケン辺境伯の領地だ。私設傭兵隊の副隊長、その最愛の妻になんぞしようかとたくらむ不届き者には死んだ方がましという罰が待っていることを、この地にいる全てのごろつきどもは知っている。

左手一本で抱えられることを常に不審に思いつつ、アイリーンは子供のように運ばれる。いったいどういう筋力なのか、優男にしか見えないダニエルは肘の上に妊娠した女性を載せていても不安定な歩き方をしない。よろけもせず扉を開けていく。


「軽い。まだ軽いよハニー。もっと頑丈になってくれ。僕が抱きつぶせるくらいに」

「無茶を言う。医者の見立てでは私が肥っても頑丈にはならないそうだぞ」

「骨を折ってしまいそうで怖い。全力で君に抱きつけないのが不満なんだ」

「…………やっぱり、馬鹿だろ、ダーリン」


アイリーンは顔を真っ赤にし、ぷいと顔を背ける。くすくすと笑ったダニエルがそうっと長椅子へと腰かけた。窓から庭が一望できる居間はアイリーンのお気に入りだ。侍女がタイミングよく差し出してくれるオレンジ入り紅茶も。


「明日は、いつ出発しようか」

「うん。ハニーが起きた時間にしよう。僕にはハニーを起こせないから」


頬に、頭のてっぺんにキスが落ちてくる。つられたように吹いたアイリーンが窓の外を見て一気に上機嫌になった。雪がひとひら、またひとひらと舞ってきたのだ。濃い緑と白い雪、濃い灰色の空。ハロッケン辺境領は北に位置するのでずいぶんとアイリーンの実家の辺りは気候が違う。それも、彼女のお気に入りだ。


「あ、動いた」


胎動は、最近になって活発になってきている。アナスタシアはアイリーンの妊娠と同時に乳児、幼児用の品物も扱い始めた。兄と父からの溺愛は薄れていない。

ただずっと、年の半分を離れて過ごしていても愛情をひたむきにくれる。


「ダニエル。私は、幸せだな」

「ダーリンが幸せなら、僕も幸せになれる」


そっと茶器が取り上げられた。雪がちらほらと舞う真昼間、夫と飲める茶が美味しい。暖炉の薪は惜しみなく焚かれ胎児は元気でアイリーンも健康だ。窓はいつでも全開にできるし、美しい針葉樹林が散歩を誘う。


愛おしいダーリンは、ハニーを溺愛している。



二年前の自分が聞いたら『どんな妄想日記だ』と鼻で笑うような感情を、あとでノートに書き込もうとアイリーンは決心して。



とうとう唇に降ってきた甘い唇に合わせて、薄く口を開いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ