妄想日記―7―
「…………ええ、兄さま」
なんの答えにもならない相槌だけを打って、アイリーンは隣に座るハニー、いやダーリンだ。ダーリンを見た。
彼女は知らなかったが、妄想小人というものは現実に出てきた場合、恐ろしい勢いで美化されるらしい。
……うん、反対じゃないか? とアイリーンは思う。
なんで脳内より数倍の勢いで美化されてるんだ、ダーリン。
「文通、というか、私とアイリーン嬢は文章のやり取りを通じて知り合いました」
「きっかけは」
冷え冷えとしたアイリーンの兄の、全身から放たれる『消えろ』という雰囲気にめげることなくダニエルは目を逸らさない。気おくれもしていない。
そのことに、やや距離を置いていたからだろう、いち早く気が付いた家令のカートが苦虫を噛み潰したような顔になった。
「私がアイリーン嬢に興味を引かれた理由……、さて、どれになりますか。一番最初のはじまりは、ええ、好奇心ですね。『表に出してある分が非常に明快なアナスタシア』――ですが少々、その、これだけ大規模な商会にしては後ろ暗いことがなさすぎまして」
「…………ハロッケン伯爵家、と、言われましたか。ダニエル君」
「そういうことです」
ほっとしたようにダーリンが微笑めば、そこでふつりと会話が切れる。微妙な沈黙にアイリーンは困惑した。
彼らが何を言っているのか、かなりのところまで紳士の話し合いの内容を理解できる彼女をして、いまいちわからない。アナスタシア商会の名が出たからには仕事関係だろうか。だが、彼女が知っている限りアナスタシアにダニエルという名もフロッケンもいない。
ならばダーリンは、他の商会に属してるのだろうか。
「それで」
「それで、埃が出そうかどうかを調べるために私がこちらに使わされたわけですが……ええ、私自身がまったく予想外なことにですね、こんなことになるとは誰も視野に入れていなかったのですが、つまり」
「……その先は言わなくて結構」
「恋に落ちたんです。アイリーン嬢に」
…………は?! 私か?!
不意打ちで飛ばされた会話の矛先が自分なことに、ついうっかりとアイリーンは淑女にあるまじき驚愕の表情を隠せなかった。子供のように目を剥けばダーリンの不思議な熱視線にからめ捕られるようだ。背中がもぞつく。
現在、人当たりのいい甘ったるさに隠された、含みの多い言葉のやり取りが水面下で同時に行われていることは、アイリーンには薄々わかっている。わからないのは、なぜそれに自分が巻き込まれているかだ。
いや、本当にわからないのだろうか。想像もつかないか?
唐突過ぎる展開の連続に理由が追い付かない。
そう断じてしまうのは怠惰ではないか。実は彼女の内部のどこかでは納得してないか。
ぐるぐると思考が暴れる。混乱しそうだ。だが、どれにだろう。
どれに、どれだけ感情の目隠しをされている?
手の中のグラスがかいている汗が煩わしいと、アイリーンはアイスティーをテーブルに置いた。間髪入れずダーリンから手拭きを渡され……いや、手のひら自体を拭き清められた。
なにもかにもが、どういう意味だ。
アイリーンは眩暈さえ起こしそうな勢いでダーリンを見上げる。しかし、すぐに気恥ずかしくなり伏せてしまったために、彼女に向けられたただ漏れの、馬鹿みたいに甘ったるい目線には気が付かなかった。
この時に誤解しようのない溺愛仕様の笑みを確認していれば、のちにもう少し早く事態を呑み込めたのだろうが。惜しくもスルーしてしまった。
初対面の男性と顔を突き合わせることのない不慣れな年若い女性は下を向き、考え始める。ハニーが、密やかなる妄想日記の相手がダニエルと名乗り、今こうしてここにいる意味を。
・大掛かりな個人的ショー。
・知り合いでもないダーリンがわざわざ、兄さまを個人的にからかいに来た。
・友人たちとの悪趣味な賭けに負け、罰ゲームの最中。
…………ろくな考えは出ないようだ。それにもこれにも無理がありすぎる。
彼女がじたばたと思考を宙で遊ばせている間に、彼女の兄へと視線を戻したダーリンがお互いに無言のまま、相手を推し量る。アイリーンが見たこともないような冷たい目はむろん、溺愛対象である彼女には今回も決して認識されることはなかった。
アイリーンが瞬きをしただけで二人の凍りつきそうなまなざしが緩むことも、よって彼女が知ることはない。
「……非常に不快な展開のようなのでダニエル君、それ以上は口をつぐんでいただきたい」
「御当主と、兄君であるキルト殿には確かに不快でしょうが。私はどこまでも真面目です。私、ダニエル=ハロッケンは本日、アイリーン嬢に求婚の許しをいただきたいと思い、こちらに伺いました」
「…………」
「…………」
「…………はぁああ?!」
ダーリン、ダーリン、ダーリン。
少し、冗談がきつすぎるんじゃないか。コレ。
アイリーンは素っ頓狂な声をだし、赤面した。どうもダーリンが来てからというもの淑女としての仮面が外れっぱなしで困惑しきりだ。言い訳すれば彼女とて爵位もちの端くれを自負している。ここまで恥ずかしい態度を暴露し続けたことなど社交界デビューしてからこっち、一度もないのに。
アイリーンがこっそりと開催した1人自己嫌悪祭りの間ももちろん、沈黙は保たれている。
……何拍待ってみても突っ込み待ちな場面のはずが、誰からも終了キューが出ない。彼女は戸惑って兄、ダーリン、家令のカートの顔を順繰りに見た。一周しても彼らの表情は無表情、満面の笑み、驚愕、と変わらない。
仕方がないのでもう一巡回してみたがやはり状況が変わらなかった。
なるほど、場面は凍りついている。
「兄さま。私は家に入ることを提案いたします」
そこでアイリーンは腹を括った。どうにもこうにも事態はアイリーンの全力を持ってかからねば把握はおろか解析すら追いつかない。淑女だどうだということよりも、アナスタシア商会と彼女の名前に婚姻の文字が結びついてしまえば、アイリーンとしては素を出していくしかないだろう。
「…………アイリーン」
「お話は長くなりそうです。私、こんなに暑い場所では頭が働きそうにありません。それに、硬い椅子は一時休憩の物であって」
「ああ、ごめんよハニー。気が利かない男で本当に申し訳ない。僕の膝に座ってくれれば良かったのに」
「…………いや、それはどうだろうな、ダーリン」
滑らかな動作で立ち上がったダーリン、ダニエルがするりとアイリーンの腰に手をかける。無理のない方法で立ち上がらせてくれたダニエルに、アイリーンは意外そうに目を瞬かせた。彼女はいささか痩せすぎているのでかなり意識しなければ自然な形でエスコートはできないのだが。
「改めて自己紹介をさせてくれないかハニー。僕はダニエル=フロッケン。フロッケン辺境伯の三男にあたる、今年で25歳になる……うん、私設傭兵隊みたいな組織に所属しているんだ」
「フロッケン辺境伯……私設の傭兵隊? ――もしかして『重石の陰犬』か!」
「……アイリーン。どうしてその名を知ってるのか、後で、兄さまに話してくれるね?」
「それは僕も気になる」
ダニエルがアイリーンの左を支えれば当然のごとく兄が右の位置についた。アイリーンが気付かないうちに、彼女の腰に回されたダニエルの手の甲はささやかな攻防を繰り広げ、勝利している。
薄く赤い痣と引き換えに。
「フロッケン辺境伯は王の絶大なる信頼の元で、その名の通り辺境に置かれている。隣国を牽制するし、そのくせ国内の些少な違和感も常に把握しているともっぱらの噂じゃないか。情報は辺境伯子飼いの組織が集めてくる。そんなことくらいは、引きこもりの私でも知っていて不思議のない土台知識だろう」
「けれど『陰犬』は、俺たちみたいに泥にまみれる位置での通称だよハニー」
「重石も、もっぱら陰口の時にしか叩かれない呼び名でね」
まずい、とアイリーンは首をすくめた。妄想日記のあの口調がネタだとしても、9割9分9厘が軽口だったとしても、あの日記には溢れんばかりにアイリーンへの愛が詰め込まれていた。あの設定に沿うならばダニエルがこうして溺愛傾向の態度を取ってくるのも想像しておくべきだった。
もう少し慎重に、淑女が知らない呼び名は飲みこんでおくべきだったようだ。
流れるようにエスコートされ玄関ホールを通り過ぎる。応接室に彼女を移動させたハニーはアイリーンから日傘を受け取り、自身のトップハットを持ち手に被せる。長椅子のやや端寄りにアイリーンを座らせ、その時点でようやく追いついた侍女に荷物を預けると細々とアイリーンの世話を焼いた。キルト――アイリーンの兄があ然とするほどに自然に、そして有無を言わさずに。
「さて、陰犬の話題は後で聞くとしてハニー。疲れてないかい? もしもよかったら散歩している途中で話し込んで、結果として君を立ちっぱなしにさせてしまったお詫びに足を揉んであげたいんだけれども」
「できるか」
「だよね。ハニーは淑女だから。いやいや僕が知っている誰よりもハニーは美しいよ。心根のありさまも、当たり前だけど姿かたちもね。ああ、僕がささげられる言葉たちのいくらかでも君に届いてるのか僕に教えてくれないか。足りない分はいついかなる時でもハニーに補充するよ。僕が愚かにもどれだけダーリンに溺れているのか、本当に、君に見せられたらいいのに」
「…………」
「…………」
アイリーンは生で聞かされるダーリンのこうした口調に、兄はまた違う感慨を持って。
応接室は寸の間、沈黙で満たされた。




